徐々に赤みが混じり始めた空が広がる空間に、何かが横切ったような音がした。黒い影が急に現れて、下へ向かう空気の流れを作り出していた。
バキバキッ―――。
生木が引き裂けるような音が黒い影が落ちていった方向から聞こえてきた。
「何だ? 今の」
その呟きの先は、続いて聞こえた、ドスンという音に消された。
「っ痛ったーっ」
腰に受けた思いがけない強い衝撃に、ミューは思わず叫び声を上げてしまった。腰以外は、背負っていたリュックがクッションになり、痛みを感じるようなことはない。
「僕、スパゲッティになっちゃった?」
体の前面全体に背負っていたリュックの重みも加わった強い衝撃を受けたゴウは、自分の身に起こったことの可能性に痛みを忘れた。ゴウは母親と父親を疑ったものの、二度と会えなくなるとは考えたくなかった。だが、人間ではなくスパゲッティになってしまったなら、もう彼のことなどわかってはくれないだろう。
「ゴウ、大丈夫?」
その大丈夫の意味を図りかねていて、ゴウは返事をすることができなかった。
「大丈夫じゃないよ」
ミューの期待と全く違う野太い声が響く。声が聞こえてきたのは、下の方向。ゴウとミューが改めて、下を見ると、二人は青いビニールシートの上にいたことがわかった。そのビニールシートは何かの上にかぶせてあるのか、平らに敷かれているものではなかった。
「ワシの家に何の恨みがあるんだ?」
怒りのせいか、はたまた失望からくるものか、野太い声の調子は揺れていて、空気の割合が多い。
いまいち事情のつかめないミューは、自分が座るようにしている周辺を見回した。運よくビニールシートがあったおかげで服はあまり汚れていない。ビニールシートの下で微かに動くものの存在は気づいたが、それが何かという理解はできないでいた。一方、ゴウは、その声が知らせた内容に、危機感を覚え始めていた。
「ここ河川敷? キャンプ?」
真顔で呟くミューに、ゴウは小さく知らせていた危険信号が急に最大限の音量で切り替えられたような錯覚に陥った。これはまずい。ゴウの直感が格闘ゲームでボタンを連打するときの指よりも早い速度で警笛を鳴らしていた。じわりと、暑さによる汗とは別の汗を感じながら、ゴウは自分の置かれた状況を確認した。辺りを見回すと、テントのような、ただのダンボールのような不思議なものが、数個点在している。たぶん、あれは、そして、今、ゴウの下にある、これも、「家」なのだ。それを半壊、いや、ほぼ壊滅状態にしてしまった。これは、まずい。
話せばわかるかもしれない。けれど、野太い声の主にしてみれば、話してもわからない方法で、理解しがたい世界からやってきた存在であることを思い出した。全くもって、理解してもらえる自信がない。最善と思われる対応を小さいその頭の中に思い浮かべた。
野太い声の主は、まだビニールシートに動きを制限されていて、動くことができない。ミューは、まだ状況を把握しようとしているのか、別のことに意識を飛ばしているのか、あまり「下」については考えているようには見えない。ゴウは、ミューの手をとると、耳元で小さく動けるかどうか尋ねた。ミューが頷いたのを確認して、ゴウはその手を引っ張り、勢いよく走り出した。
「ごめんなさーい」
ものすごい勢いで遠ざかっていくその声に、ご近所さんも姿を現しそうな気配があった。残念ながら、彼らがその声の主を探そうと姿を現したときには、辺りには、普段通り、和らいだ日差しの中をジョギングやサイクリングを楽しむ人たちがいるだけだった。ゴウは心の中で「本当にごめんなさい」と唱えながら、今まで生きてきた中で一番の速さと力強さを発揮していた。
夕暮れに溶けるようにして、その場を去った二人を見つめ続けた目があったことなど、二人には気づく由もなかった。
扇大橋近くのベンチに腰をかけ、ゴウは乱れた息を整えた。喉の奥に鉄のような味を感じる。ミューのほうを見ると、息など乱れた様子のない。ゴウはただうらやましかった。
「いきなりびっくりしたじゃない」
「ミュー、気づかなかった? あれ、本当に『家』だよ。事情説明してわかってもらえるとは思えなくて、逃げようと」
冴えてるのか、のん気なのか疑わしいミューにゴウは説明したが、いつも頭の上がらない従姉弟の前では語尾までハッキリとというまでには至らなかった。そのまま、足元に視線を落とすゴウの耳に、ミューがふぅっと息を漏らす音が聞こえた。
「ありがと。いい判断だわ。助かった」
滅多にないミューからの賛辞に、ゴウは驚いて、顔を上げた。そこには、零れるくらいに優しい微笑みを湛えたミューの顔があった。
「鬼のかく乱?」
ゴウの小さなその呟きは、当然、ミューの耳に入り、もっちりして柔らかいゴウの頬はミューの両手で限界まで伸ばされて、開放された。
「よく知ってるじゃない? そんな言葉」
「これから、どうするの?」
ゴウは両手で両頬をさすりながら聞いた。これがゴウにとっては一番不安なことだった。見に行くと言っていたが、何をどこに、どう見に行くのだろうか。ミューは、今さらわかりきったことは聞かないの、と不満げな表情で伝えてきた。
「おばさんのところへ行くの」
心の準備がまだできていないゴウは、明確な宣言をしたミューに溜息をついた。
「まずは、今いる場所の正確な位置と時間を確認しましょ」
ミューはこちらを見下ろすように建つ家電量販店を指差した。現在地だけなら目処はついていた。二人が話していたベンチから「扇大橋」「荒川」という大きく書かれた文字は確認できる。けれど、そこからどう移動していいかなど、初めてこの地を訪れた二人には想像がつかない。
家電量販店の中に入ると、ミューは迷わずパソコンコーナーへ向かった。インターネット接続のデモ機を操作して、彼女はニンマリと笑う。ミューが自慢げに指差したその先には、「2013.08.02 17:15」という数字が並んでいた。セール商品を知らせるチラシ広告も、間違いなく二〇一三年という数字を確認することができた。二人にしかわからない興奮で、周囲が少し見えにくくなっていたのかもしれない。ゴウは、ドンっと通りすがりの人に、背負っていたリュックをぶつけてしまった。見上げると、貫禄を感じさせるお腹を持つ優しそうなおじさんが微笑んでいた。
「す、すみません」
おずおずとゴウが謝ると、おじさんは、口元を大きく横に伸ばし、にかっと笑った。
「こちらこそ、ごめん」
おじさんは、ゴウの傾いたリュックを直してくれた。
「ありがとうございます」
おじさんは気をよくしたらしく、ゴウの頭をグリグリと撫でてくれた。ゴウは少し照れくさくなって、ミューに助けを求めようと視線を向けた。
ミューは、ゴウのことなど見ていなかった。素敵な人、と呟くミューの先には、おじさんよりはずっと若くて、カッコイイ男の人が遠くにあった。ゴウはミューが男の人にうっとりしているように見えた。そんなミューを見たのは初めてで、理由はわからないけど、どこか不満だった。
ミューは、ゴウに向き直り、さてと、と一息ついた。
「それじゃ、おばさんの家に行こう。前の家、覚えてる? わたしは覚えてないや」
「確か、川崎だったはず。なんとなくだけど、覚えてるよ」
「じゃあ、急ごう。たぶん、ここから一時間くらいかかっちゃうはずだから」
ゴウは記憶している場所が実在しているかどうか、その地に辿り着くまで不安で仕方なかった。そして、もしも、実在していないとしたら。その可能性自体が怖いものであったが、ミューの反応がそれ以上に怖い。想像するだけで、ゴウの体は小さく震えた。
ゴウは小学生になるのを機に、今の家に越してきた。その前に住んでいた家となると、その記憶は、ひどく断片的で不確かな記憶でしかなかった。その記憶の糸を手繰って道案内をするのだ。正しい場所に行けるのか、それ自体が、すでに怪しかった。
ゴウの不安は、頼りない幼い頃の記憶を元にしていたにも関わらず、杞憂に終わった。辿り着いた場所は、確かにゴウが幼い頃にいた景色の中だった。
住宅の間にある砂場とブランコ、ジャングルジムしかない小さな公園。この公園で二つしかないブランコに何度も並んだ。小さな砂場は、時に山になり、お城になることもあった。街角の商店では、いつもお菓子がほしいと、母親にねだった。少し先の大きめのショッピングセンターに連れて行ってもらうときはうれしくていつも大はしゃぎしていた。ゲームコーナーで父親と対戦したり、サンタさんへお願いするときにわかりやすくしようと、おもちゃ売り場でほしいロボットの名前をしっかりメーカー名まで覚えようとしたこと、買い物の合間にアイスクリームを食べたことが、ゴウの記憶の中に残っていた。
そんなことを思い出しながら、ゴウは、かつて住んでいた集合住宅の一室のベランダを見つめた。
「ミューここだよ」
確かに、この団地。同じようなベランダ、同じような玄関が並んでいたが、ゴウには、自分の家が簡単にわかる。目指すは、七階。早速、団地内に入り、エレベーターのボタンを押した。今よりもっと小さかったあの頃は、七階のボタンに手が届くかどうかだったのに、今は軽々と届く。団地はゴウの記憶通りだったのに、ゴウは団地が記憶しているゴウとは違っていた。
ゴウは記憶通りの場所にミューを案内することができたことに、ひとまず胸を撫で下ろした。玄関の外側についた傷も、ドアの横にある下開きの牛乳瓶を入れるための扉を無理矢理開けるときの、ギッギギギという音も記憶通りだった。
ただ一つ、ほんの少しだが、確実に、記憶の中の景色と違うものがあった。
「本当にここ?」
ミューの質問に、ゴウは小さく頷いたまま、口を閉ざした。ミューも言葉を続けることはなく、沈黙を守る従姉弟を見守った。ゴウは、もう一度、確かめるように、見上げる。
ドアの右上。そこにあったのは、「高宮」という、知らない苗字の書かれた表札だった。
「確かに、ここなんだ。このドアの傷も、廊下の染みも覚えてる」
ようやくゴウがその口を開いた。けれども、ゴウがいくら説明しても、そこにある表札の名前は変わることがなく、全くの別物だった。独り言をブツブツと唱え始めたゴウとは反対に、ミューは口を閉ざし考え事をしているようだった。
足音が近づいてくるとともに、チャリンという音が聞こえた。ドアの正面で並んで立ち尽くしていた二人は、その音がした方向に体ごと向き変えた。
「家に何か用?」
二人が全く知らないスーツ姿の若い男の人が右手に鍵の束を持ち、チャリチャリと音を立てるように回しながら、無表情で二人を見つめていた。この人が『高宮』であることは察しがついたが、高宮がゴウたちと関係があるかと問われれば、答えはノーであった。
「すみません。間違えてしまいました。この近くに長谷川さんのお宅はご存知ですか?」
言葉を忘れてしまったかのように高宮を見つめ続けるだけのゴウに代わって、ミューが答えた。高宮は、鍵を玩んでいた右手の動きを止め、鍵を右手に握りこんだ。その間、口を閉ざしたまま、ミューとゴウを値踏みするような視線を送っていた。
「知らないな。隣に誰が住んでいるのかも知らない」
淡々とした声で答えた高宮は右側の口の端だけを上げた。ミューは、何か得体の知れない不快感をどこかで察知したようだった。ミューの体の中の何かが「逃げろ」と伝えていたのだろう。なおも言葉なく高宮を見つめて動かないゴウのチラリと横目で見ながら、右手で背負っていたリュックのストラップを握り締めた。
「変なこと聞いて、すみませんでした。それと、ありがとうございました」
一礼したミューは、左手でゴウの右手を取った。ゴウの耳元で、行くよ、と囁いたミューは、そのままその場から走り出すようにして、立ち去った。ゴウが一瞬、振り返ると、無表情のままの高宮がこちらを見たまま、再び、右手で鍵を玩んでいた。
エレベーターを下り、集合住宅の外に出てきたミューは、今まで呼吸ができなかったとばかりに、大きく深呼吸をした。ゴウが空を見上げると、オレンジの光が混じり、紫色のように見える夜の色に、彩を添えていたグレーの雲が一秒毎に姿を変えていた。再び、かつて自分が住んでいた部屋の窓を見てみたが、そこには灯りがないままだった。
「やっぱりタイムスリップはできなかったのかも」
少しだけゴウの記憶と違った集合住宅から最寄り駅に向かう途中、ゴウの気弱な呟きは、誰にも伝わることなく空気に溶けていくはずだった。
「それはない。たぶん、同じ次元の過去には戻れなかったっていうことだと思う」
今まで、何か考え事をしている様子で、ゴウのことなど気にもかけていないと思われたミューが口を開いた。よくわからない言葉に、ゴウは目を瞬かせた。
「とりあえず、ここにはおばさんもおじさんもいないけど、何かヒントがあるはず。よくわからないけど」
「今日はどうするの?」
「一度、戻って作戦を練りたいところだけど、一つ残念なお知らせがあって、今は帰ることができなくなっちゃった」
右手を髪の毛の中に滑り込ませるようにして頭を支え、そう伝えるミューに、ゴウは自分の目がここまで見開くことができるのかと驚くほどに目を見開いた。
「移動中に、部品が一つ落ちちゃったみたい」
ミューは懐中時計を取り出して、そっと撫でる。
「どこで?」
「電気屋でなくなっていることに気づいたから、着いてすぐかな?」
ゴウは溜息をついた。あの家を全壊してしまった野太い声の元に戻るのは、ゴウとしては避けたいところだったが、ほかに選択肢はない。
「とりあえず、戻ろうか」
あの近くに宿泊施設はないように見えた。あったとしても、子どもだけの不審な宿泊客を受け入れてくれるところなど心当たりがなかった。野宿というものを、大都会、東京で初めて経験することになるのかもしれない。ゴウは頭を抱えた。
午後八時を過ぎて都内を走る電車の中は、お酒の匂いと油の匂いが入り混じっていた。赤い顔で隣の人と大声で話している人、その様子を見て不快そうに場所を移動する人、本や新聞を読む人、パソコンや携帯電話をいじる人、眠る人。
いろいろな人の様々な気持ちを乗せて走り続ける電車の中に、ゴウとミューもいた。塾帰りのような中学生や高校生がほんの少しいるほかは、みんな大人だった。混雑している車内では、みんな同じ顔に見えた。
窓の外の景色は、暗闇の中に少しずつ色が違う光が入り混じっているものが動いているだけのようにも見えた。その中で、ゴウはミューと自分だけが異質な存在であるような気持ちになっていた。
「何か、落としましたよ」
女の人の声が、ゴウの上から聞こえたような気がして、ゴウが見上げると、その位置は変わってしまったあとだった。悠々としているとはお世辞にもいえない車内で、ゴウの横にどうにかしゃがみ込んで、その何かを拾ってくれた。はい、と言って、ゴウの手に乗せてくれたものは、紙切れだった。
「ありがとうございます」
拾ってくれたお礼を述べたものの、ゴウは何かゴミを押しつけられたような気持ちもあった。女の人は、そのお礼にうれしそうな表情を浮かべて、いいえ、とだけ答えた。女の人はそのまま、間もなく着いた次の駅で降りていった。女の人は笑顔をゴウに向けると、そのまま逆らうことなく人の流れの中に消えていった。
すぐに新しい人の流れがゴウたちの乗る電車の中に注ぎ込まれた。電車はあれだけ多くの人が出て行ったというのに、同じくらい混雑した空間に戻った。ゴミではない微かな可能性を信じて、その紙切れをゴウは開いてみた。そこに書いてある内容を確認して、ゴウはつり革を片手にぼんやりと窓の外を見ているだけだったミューの手を引いた。
「ミュー、これ」
ゴウは右手を押しつけるようにしてミューに差し出した。
「なに?」
「見て」
いつになく真剣なゴウに、ミューは素直に従い、空いている左手で、それを受け取った。
「どうしたの? これ」
ミューは、ぼんやりと光を映し出すだけだった瞳を輝かせて、ゴウを見た。
「僕が落としたって、女の人が拾ってくれた」
「どういうことなんだろう」
「僕にもわからない」
ゴウもミューの手にある紙切れを再度見つめた。
黒沢 透子
東京都北区豊川5の3 11―1317
書かれていた内容は、おばさん、ミューの母親の旧姓であれば同姓同名となる人物の住所だった。何かが、どこか知らないところで動いている。そんな気がした。
「戻ろうとしている場所と近いね、この住所」
いつ取り出したのか、ミューは自分のリュックしまっていたのポケット地図を見ていた。
「どちらにしても、ここに向かってみるしかないと思う」
ゴウは、深く頷いてみせた。
「問題は、どうやってそこに行くかだよね」
その言葉を最後に、ミューは最寄り駅に到着するまで、また黙り込んでしまった。ゴウもまた、どうしたらいいのかということを頭の中に思い描いては消していくという作業を繰り返していた。