仮レ宙

6.Rain before seven, fine before eleven.
《7時前の雨は11時前に晴れる》

失業者認定を受けるまでの短い間にコクトウは様変わりしていた。趣味のジョギングの頻度が増え、夏の強烈な紫外線が降り注ぐ日中も自転車や徒歩で動き回ることも増えたためか、体が引き締まったという域を超え、筋肉が浮き立ち、その肌は健康的に黒光りし始めていたのだ。

今の彼女の姿は、サンダー曰く、「コクトウ」そのものだった。

ここに彼女が禁断症状を起こすほど好む黒糖そら豆が揃ってしまったら、これはもう、彼女から猛烈なメッセージを送られているとしか思えないだろう。さらに、この時期しかできないという彼女の独断と偏見により、かねてから憧れていたというスパイラルパーマに髪型を変化させていた。手足が長く、胸元にはボリュームがあり、目立つ目鼻立ちという特徴を持つ彼女にその変化が加わったせいか、その姿は日本人のイメージを裏切るようなものだった。

その日、コクトウは古本街にいた。

ようやく見つけたその本は、格調高い雰囲気を醸し出す本棚の上段に居座っていた。彼女が手を伸ばし、その本の下部に触れると、同時に同じ本の上部に触れる手を目にした。その手を目で牽制する。コクトウはその手をたどり、手の持ち主のほうに視線を移した。

ライバルは、スーツに身を包んだサラリーマン風の男性。年の頃は、四十代というところだろうか。短く整えられた髪の毛にちらほらとグレーが混じっている。クールビズという呼び名で、涼しげな服装を奨励し始めている現代のオフィスシーンに喧嘩を売っているのではないかと思われるダークスーツをキッチリと着用した厳つい風貌の男性だった。クスッと笑いを漏らしたコクトウの気配に気づき、男性は、すみません、と小声で謝った。
「いいえ。こちらこそ、すみません。本、どうぞ」

コクトウは素直に謝りながら、本から手を引いた。
「いえ、懐かしい本だと思って、見ていただけですから」

柔らかい微笑みとともに男性はゆったりと説明する。
「私も目当ては別の本なので」

対抗心や目先の欲に囚われると本来の目的を忘れてしまいがちになる。男性は微笑を湛えたまま頷いた。
「では、お言葉に甘えさせていただきます」

結局、本を買うことなく古書店を出ることにしたコクトウは、階段を下り、一階に下りたところで、熱気を冷ましてくれそうな気配に気づいた。
「積乱雲だったっけ?」

空を見上げて、コクトウは目を細めた。
「夕立ですね」
先ほどの男性の声だった。

本屋に程近いコーヒーショップで、二人は向かい合うようにして座った。店内は彼女たちと同じように突然の雨をしのぐために訪れた人、腰を落ち着けて読書をする人、勉強をしている学生、おそらく仕事をサボっているサラリーマンで賑わいを見せていた。

コクトウが手に持つマグカップから、コーヒーの香りがゆったりと流れた。暑い夏には冷たいものを好むコクトウだが、コーヒーだけはブラックのホットコーヒーを好む。対して男性は、アイスカフェオレにガムシロップでたっぷり甘みをつけて楽しんでいた。
「アリスがお好きなのですね」

気持ちを落ち着かせる香りに表情を柔らかくしたコクトウが会話のきっかけを作った。唐突な彼女の質問にも関わらず、男性もその表情を和らげた。
「ええ。大人になってから、その面白さに気づかされました」
「究極のナンセンスって、見かけた本の帯に書かれていましたよ」
「その中に磨き上げられた知性とユーモアに富んだ鋭い皮肉、その裏にある胸が詰まるほどの優しさを勝手に感じているのですよ」

コクトウは目を細めて、コーヒーを一口だけ口に含んだ。
「あなたは?」
「アリスに憧れてしまうのか、狭い視野を常識と思ってしまいたくなる私へのいましめなのか。たまに読み返したくなってしまうのです」
「再び出会いたいと思えるものがあるというのは幸せですね」
「出会えたことに、心から感謝しています」
「今の言葉は、誰かを想って言われたのですか?」

穏やかで静かな口調に、コクトウはコーヒーに向けていた視線を上げた。
「ええ。たぶん」
「恋人ですか?」
「いいえ。昔のことをフッと思い出しました。私が私になるために道を照らしてくれた、今でも大切な人たちです」

コクトウは、どこまでも穏やかで幸せそうな笑みを湛えていた。
「複数?」
「ええ。複数です」

コクトウの年季の入った大きめのリュックから、空気を振るわせる鈍い音が聞こえた。男性に、失礼しますと短く断りを入れ、音の発生源である携帯電話をリュックから取り出した。フィリップ型の携帯電話を開いた彼女は、眉をひそめながら席をはずした。
「失礼しました」

柔らかい表情で戻ってきたコクトウが席に着くと、男性はカップの中を覗き込んだ。
「飲み物もいつの間にか、底をついていたみたいですね。そろそろ出ましょうか?」

男性は、窓の外の空を手で指した。いつの間にか、雨は上がっていて、代わりに、再びその役目を果たそうと意気込んでいるような太陽の姿が見え始めていた。
「そうですね。短い間でしたが、お会いできてよかったです」
「こちらこそ、お会いできてよかった」

それが合図のように、二人は席を立ち、出口へと向かった。
「また、いつかどこかでお会いできたらいいですね」
「ええ、またいつかどこかで」

男性は微笑みながら、最後にコクトウの目を見つめた。コクトウは人ごみに消えていく男性の背中を一度だけ振り返って、遠くでも見るように眺めていた。

先ほどの雨が、茹だるような夏の暑さを幾分和らげてくれたようで、ほんの少しだけ過ごしやすくなっていた。そんな夏の街をコクトウは自転車で駆け抜けた。

ほんの少しの感傷と胸いっぱいの暖かさ、そして汗だくの体。自宅近くのエリアに突入したコクトウは、思わぬことで、その心の動きを遮られた。

前方で若い警官が体を張ってコクトウを止めようとしている。なんだよ、と不満に思いつつ、彼女はブレーキをかけた。
「何で、止められたかわかりますか?」
さっぱり理由のわからない彼女は、警察には喧嘩より愛嬌だといわんばかりに、目をパチパチして、小首を傾げてみた。
「あなたの自転車ですか?」

使命感に燃えたような眼差しで彼女を詰問する警官に、コクトウはさすがに面食らっていた。ポカンと口を開けたまま、彼女が唖然としていると、その声は続けて宣言した。
「防犯登録番号調べさせてもらいます」

自転車はその辺にいっぱいいる。コクトウの自転車にはカゴがない。リュックにハーフパンツ、Tシャツと日焼け止めのほかの唯一の対日光戦の防御グッズの帽子。確かに、見た目は貧乏を最大限に表現しているともいえる。
「あ、大丈夫です」

悶々とするコクトウを尻目に、若い警官はあっさりと言う。眼力で抗議することを止められなかった彼女は、さらに続いた言葉にすごすごと退散する。
「行ってください」

今日は夕焼けがやけに染みる、そう呟きながら、ペダルを踏んだ。それが、ほかでもない、今のコクトウなのだった。

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