「あれ? ドア開いてるよ」
つい自宅に帰るような感覚でドアに手を伸ばしたゴウが気づいた。
「え? 閉めたはずだよ」
コクトウしか持っていないはずの鍵をバックから出して、ミューに相槌を求めた。
「鍵穴に鍵は入れてた」
ミューは正しく伝えた。
「閉め忘れちゃったのかな? まぁ、いいか。入ろう」
コクトウの言葉を合図に、ゴウはそのままドアを開けて、部屋に入った。
「荒らされているなんてことはないよね?」
「ないよ」
「よかった」
何事もなかったかのように、そのまま冷蔵庫にペットボトルを入れようと屈んだコクトウを見て、ゴウは敵わないと痛感した。汗と土ぼこりに塗れているゴウは、コクトウに注意される前に、シャワーを浴びようと着替えを探し始めた。
「ないよ」
「なにが?」
「懐中時計」
思い当たる一つのものを頭に描いたゴウは、声にならない叫び声を上げた。
「どうしたの?」
「懐中時計がないの」
「どこかにしまったんじゃないの?」
ミューは残念そうな表情を浮かべて、首を左右に振った。
部屋中を探してみたものの、懐中時計は見つからなかった。懐中時計だけあっても、メモリがなければ、その役目を果たせないことを考えると、現時点では何も状況は変わらないのだが、探すものが増えてしまったこと、何よりコクトウ宅への不法侵入者があったということは少なからず問題だった。
コクトウが交番でイライラしている頃、コクトウルールに則り、ゴウとミューは図書館にいた。
動くに動けない。ヒントもない。それならば、この時間に自分たちがいた世界とこの過去がどこからどのくらい違うのか調べてみようと考えたのだった。手がかりにはならないと思いつつ、一応、子供向けの世界の歴史や日本の歴史がまとめられている本にもざっと目を通した。書かれている内容は、ゴウやミューが学校で習った過去と同じだった。
次に調べるのは、過去の新聞。ゴウとミューの意見は一致していたが、その膨大な情報量に頭を抱えた。幸い、どこから調べるかという点においては、悩むことはなかった。二〇一〇年十二月三十一日、彩の亡くなった日とされている日、そして、事故があったとされる二十五日の翌日。その記録は予想よりも早く見つけることができた。ミューやゴウにしてみれば、十五年前の記録でも、ここではほんの二年前の出来事。
「おかしい」
二十六日の紙面を調べているとき、ミューは呟いた。真剣に「何か」を調べ続けているゴウは、追求することはなかった。もともと新聞を読むなんていう習慣がないゴウは、全ての情熱を注いで見つめていたファイルから視線を上げた。
「これは?」
ミューが顔をゴウに向けたのを確認すると、小さな声で囁いた。とても小さな声だったのに、ページを捲る音しか聞こえなかった空間の中では、大きなもののように聞こえた。
年末の贈り物たちによって例年多少の盛り上がりを見せる消費が伸びない、雇用が伸びないというような漠然とした、けれども、大々的に取り上げられている記事の合間をゴウは指を差していた。そこには、「クリスマスの悲劇」という目を引くようなタイトルがつけられていたにも関わらず、短くまとめられた文章があるだけだった。
(二十五日午後七時三十分頃、東京都中央区銀座の交差点で、左折しようとした大型トラックが、横断歩道を渡っていた男女に相次いで衝突。さらに、反対側を歩いていた男性に衝突した。
警視庁築地署によると、この事故で男女あわせて五人が病院に搬送され、うち二人が重体。
同署は、自動車運転過失傷害の現行犯で、トラックを運転していた千葉県松戸市の運送会社社員、近松幸成容疑者(六十三)を逮捕した。
近松容疑者は「信号が変わるまでに左折したかった」と話しているといい、同署は自動車運転過失致死容疑に切り替えて、詳しい事故原因について調べる。)
これ以降の日付の新聞を調べても、他紙を調べても、これ以上の手がかりは見つけられない。回復を見せない日本経済の行方を嘆き、次年度への期待を込めた、当たり障りのない記事が紙面を埋めるためだけに存在しているようだった。
ゴウは、この記事を読んだミューのゴクリと唾を飲み込む音を聞いた。
「どう?」
「これだ」
「どうやったら、この事故を調べられるんだろう」
身分証明書どころか存在自体がこの世界にはない二人にとっては、自由に閲覧が許されている情報から探し出す以外に、その方法は全くといっていいほどなかった。唯一、残されていた実際に確かめに行くという方法は、現状では、即行動ということも望めなかった。
「コクトウにでも相談してみる?」
今の二人には、これが一番の方法であるかのように思えた。
ミューは早速、コクトウに相談しようと部屋の中を目指した。パソコンを触っているものだと思っていたが、コクトウはソファーに座り、携帯を手にしていた。テーブルの上には、数時間前にはなかった白い封筒とそこから少しはみ出しているカード。
「なに、これ?」
ミューはその封筒に手を伸ばした。コクトウが静止することもなかったので、ミューはそのままはみ出しているカードを取り出した。
「だれから?」
少し震えてしまう手をどうにか静かにしながら、ミューは聞いた。そのミューの様子を見て、ゴウが横からそのカードを盗み見た。カードには、たった一文。
You are in me.
意味など、ゴウにはわかるはずもなかった。
「知らない」
「どういう意味?」
「さぁ」
コクトウは少々、疲れているようだった。これ以上の追求は諦めて、ゴウはミューの顔を見た。ミューも黙ったままだった。
「もしかして」
ハッと何かに気づいたというように、コクトウはミューのほうへ顔を向けた。
「ミュー、あんた」
「何のために?」
「まぁ、そうよね。第一、今もミューは私の中にはいないわ」
「もっと精神的なものじゃないの?」
「そうだとしたら、送りつけてきた可能性がある人物は、最低でも出会った人の数ってことね。全くもって手がかりにならない」
「警察に連絡したの?」
解決が見えそうもない会話を打ち切るように、ゴウは聞いた。
「まだ」
「なんで? どうして、そんな驚いてないの?」
「だから疲れたのよ」
「でも、そんな他人事みたいに」
「あのねぇ。人が喜ぶような反応や演出は空想の産物よ。当事者体験では、ただの日常としか記録されない淡白なものになってしまうの」
「そんなの嘘だよ。だって、もっと話の中では、みんな驚いてるよ」
「体験したことない奴らが想像したリアルの疑似体験が世の中のスタンダードになるなんて嫌な世の中になったもんだわ」
「ノンフィクションって書いてあった」
「それだって創作よ。表現した時点で、言葉になった時点で、物事はフィクションになるの。第一、人の目に触れさせるなら楽しませる必要があるでしょ」
「ふぅん」
「さてと、この話はおしまい。夕飯何にする?」
コクトウは話を切り上げるようにして、ソファーから立ち上がった。
「焼肉っ」
「却下」
それなら聞かないでほしいとゴウは不満を持っても、身の安全のため口には出せない。
「明日、サンダーとシカが家に来るって言っているから、ご馳走は明日にして」
空気に感染したゴウの不満を感じ取ったのか、コクトウはそう説明した。恐れおののいていたゴウの前で、ミューが立ち上がった。
「ネットで調べたいことがあるんだけど、借りていい?」
「いいよ」
あっさりと許可したコクトウが部屋を出たのを確認して、ゴウはミューに向き直った。
「コクトウに事件のこと聞かないの?」
「それどころじゃないと思って。その前にネットでできる限り調べようかなって」
「そうだね」
あんな変なカードが自分に送りつけられていたら、気持ち悪くて、それ以外のことをあまり考えつかないだろうとゴウは思った。
起動直後の画面に、新着メールを示すアイコンが飛び上がった。ミューは、そのメッセージのタイトルを見て固まった。ミューの視線の先を見たゴウも、固まってしまった。
(You are in me)
「コクトウ、来て」
ようやくその単語を音にして、ゴウはコクトウを呼んだ。台所から戻ってきたコクトウはゴウに指差された画面を覗き込んだ。
「ウィルスじゃないの?」
「開けてみてもいい?」
ミューの声は震えていた。コクトウは、念のためと言いながら、外付けのハードディスクの中に入っているデータを確認してから外した。
「本当にウィルスだったら、責任もって復旧してね。あんたならできるでしょ」
そう言い残すとコクトウは台所に戻った。
恐る恐るメールを開いてみると、ウィルスや詐欺の可能性を示唆するリンクはなかった。代わりに、ひどくシンプルなテキストメールに、短い文章だけが並んでいた。
件名:you are in me 本文: 突然のメッセージに戸惑うことはわかっているけれど、これだけは伝えたい。 私はあなたたちの敵ではない。 心配しなくても、コクトウを悩ますものは、まもなく解決する。 あなたたちの求めるものは、入り混じる場所で見つけられる。
差出人は、youareinme2024@yahoo.comとあって、ミューはコクトウに内緒で、返信を試みたが、すでにそのアカウントは使われていないものになっていた。返信を試みた形跡を消してから、ミューはコクトウを再び呼んだ。
「『あなたたち』って、わたしたちがコクトウの家にいることを知っているのかしら?」
「その前に、私のことを『コクトウ』ってあだ名で呼ぶなんて、内情に相当詳しいんじゃない? 普通なら『黒沢さん』でしょ」
「『敵』って、どこかに敵がいるってこと?」
ゴウは得体の知れない敵に戦慄を覚えた。勇者なら勇者らしく、敵を倒しにいきたい。
「さあ? 敵がいるかどうかは別にして、何かに巻き込まれていて、何かに怯えているというのは確かでしょ?」
「怖くないの?」
「さっきも言ったでしょ。それに、なにより、すでに私は不審者二名を宿泊させているからねぇ」
なんとも間の抜けた声で返事をするコクトウの視線に、ゴウは体を小さくさせた。確かに、コクトウにとっては不審者にほかならない。それなら、どうしてコクトウは不審者の滞在を許しているんだろう。そんな疑問がゴウの中に浮かんだが、ミューと二人で強引に押しかけた経緯を思い出し、その疑問をしまいこんだ。黙ってしまった二人を見て、コクトウは息を吐いて、肩の力を抜いた。
「今の家には、そうめんとめんつゆ以外ありません。よって、買出し決定。行くよ」
コクトウはお財布をカバンから取り出して、玄関に向かった。その決定に、二人は元気を失ったまま、コクトウの後を追うようにして、サンダルを足に引っ掛けた。なおも元気を失ったままの二人に、コクトウは笑った。
「ご飯を食べれば、元気になるわよ」
その言葉通り、お腹が満たされると、ゴウの警戒心は少し和らいだ。
「ただじっとしていても、動いても、危険であることに変わりがないなら、自分の思うように動いていればいいのよ」
コクトウは言い切った。もしかしたら、コクトウなりの気遣いなのかもしれないとゴウは考えてみた。けれど、相手はコクトウ。油断ならない。
「普段が穏やかな生活を送ってる僕は、慣れていないんだ」
「口だけ坊やめ」
「箱入りだよ」
コクトウはゴウを軽く睨んで舌打ちした。
「人生は冒険なのよ。甘ったれるな」
コクトウの過去に何があったのかはしらないが、随分とタフなおばちゃんができあがったもんだとゴウは心の中で感心した。そんな言葉が漏れようものなら、コクトウから鉄拳が落とされるだろう。
「それで、『冒険には危険がつきもの』って続くんだよね。できれば穏やかに暮らしたい」
「変なところでオッサン臭いわね、この坊や」
コクトウはゴウに負けずに深い溜息をついてみせた。視線で同意を求められたミューは、従姉弟と母親もどきの溜息対決に、曖昧に笑うことしかできなかった。
「ミュー、今日はどうするの?」
コクトウは午後からハローワークへ出動、その後、サンダーと買い物に出かけるという。
「とりあえず、あのメールが何かの『罠』だったとしても、人気のあるところで事件は起こさないでしょう」
「だから?」
ゴウは、その言葉の続きを待った。
「行ってみよう。『入り混じる場所』へ」
「そう言うと思った」
そう言ったものの、ゴウにはその場所がどこを示しているのかがわからなかった。
「そこはどこ?」
自分では考えようとしない小生意気な従姉弟を軽く睨んでから、ミューは溜息をついた。
「はっきりとはわからない。でも、可能性がある場所はいくつもあるから、順番に探そう」
「いくつも」
「まず思い浮かぶ中で、今、一番調べやすいのが、『川』かな。淡水と海水が入り混じる河口があるし、一つの川が分かれるところと合流するところがあるもの」
なによりメモリを失くした場所でもあった。自分たちに精通するものからの知らせである。もしかしたら、「求めるもの」というのが、メモリを示しているのかもしれないとミューは考えているようだった。
「河口を調べに行くの?」
洗濯物を干し終わったコクトウが、氷のたっぷり入った水を飲みながら聞いた。
「うん。遠い?」
「二十キロくらいじゃない?」
「あれ? 河口から十七キロって埋まってたよ」
「よく見ているねぇ。さすがサボリ魔」
「じゃあ、十七キロ?」
ミューの質問に、コクトウは首を横に振った。
「河口の0キロ地点とされている場所の先にも川はまだ続いているみたいで、行き止まりまではプラス数キロってところかな? それに、家から河川敷までの距離もあるでしょ?」
「ああ、そうね」
「往復って考えると、結構な距離だよ」
ミューがチラリとゴウのほうを見たのを感じた。ゴウは話など最初から聞こえていないふりを決め込んだ。たぶん、ミューはゴウに河口を割り当てるつもりだ。
「川がわかれるところは?」
ゴウが思い出したように、コクトウに聞いた。
「近いのは赤羽かな? それだったら、数キロじゃない?」
「じゃあ、僕がそっちに行くよ」
近いわよ、というコクトウの言葉を遮って、ゴウは言い切った。ミューの機嫌の悪さは最高潮に達し、いつもは大きく魅力的なその目で、ギロリとゴウを睨みつけた。
「ほら、だって、僕、まだ子どもだし」
いつもは子ども扱いされると機嫌が悪くなるゴウの都合のよい言い訳に、ミューの眼力が強まった。その威力に、ゴウは身を竦ませた。
「そんなに変わらないじゃない」
余計な感情が感じられないミューの言葉が却って、ゴウには怖く感じられた。
「じゃあ、じゃんけんで決めたら?」
一人部外者のコクトウがいいこと思いついたというように口を開いた。コクトウののん気な提案によって救われたのは、ゴウだった。一方、ミューは密かに考えていたお仕置きが何の因果か自分の身に降りかかり、溜息をつく結果となった。
「ミューには自転車を貸してあげるわ」
ミューはお礼を述べたが、その距離を考えるとやはり溜息が勝ってしまうのだった。何はともあれ、何かにむけて、ゴウたちも応戦する姿勢をとったのだった。