走り慣れているはずの人間にとってもジョギングが苦行へ変化する昼前、自称、繊細なゴウはより快適な環境を求めていた。
ゴウはジョギングというマラソン大会以外では縁など結びたくないものを体験していた。
そして、走り始めて十五分、二人から遅れを取ること三分、距離が開いたのを確認して、橋が作る僅かな日陰へと避難したのだった。
堤防から河川敷へと緩やかな下り坂を芝というよりは「草」という名前が相応しい緑のものが覆っている場所に腰を下ろす。そこは座っているだけで二人が走る河川敷も荒川自体も見渡すことができた。
さすが「コクトウ」という風貌だけあって、ミューの家の近所でみたおばさんの走りとは違っていた。見た目は、何かで来日した選手のようになってしまっているコクトウと若い上に普段から鍛えられているミューとは、体が違うと言い訳をしながら、ゴウは草の上に腰を落ち着けた。灼熱の太陽がその威力を大いに発揮する前の爽やかな風がゴウの汗で濡れた肌の上にも走っていった。
「ただ暑いだけかと思っていたけど、気持ちいいもんなんだなぁ」
ゴウは思い切って草の上に寝転んだ。
Tシャツはどうせ汗まみれだ。気兼ねなく、寝転んだ姿勢で背伸びをすると、夏草の青臭さがゴウの鼻をくすぐった。深呼吸までしてしまったゴウの肺の中は、さぞ青臭い空気でいっぱいのことだろう。
すでに背中も見えない二人が折り返してきて、ゴウの前を通り過ぎたら、素知らぬふりをして、そっと後を追おうとゴウは考えていた。そんなことをしたら、まず間違いなく、二人にサボっていたことがばれるということは気づくことなく、ゴウは幸せな時間を過ごしていた。
「ここは風が元気だから」
声の主を探して、ゴウは横たえたばかりの上半身を再び起こした。左右に首を振るようにして辺りを見回したが、該当者と思しき人物を見つけることはできなかった。クスクス笑うような声が再び聞こえてきた。音が聞こえるのは、上だ。体ごと振り返るようにして、後ろを見ると、白いワンピースとそこから伸びた真っ直ぐな足が目に入った。
「なにか用?」
パンツを見てしまったわけではないけれど、なんだか無性に恥ずかしく感じたゴウは、その動揺を隠すかのように聞いた。そのとき一筋の風が吹き抜けて、ゴウの周りの草を揺らした。それは、草がゴウの心の内を知っていて、囃し立てているようにも感じ取れた。
「ほら、元気でしょ」
少女の肩より少し長い真っ直ぐな髪の毛も、さらり、と音を立てて揺れていた。風が通り過ぎると、少女はゴウににっこりと微笑んだ。夏の光が少女のまつげで遊んでいるように跳ねていて、そのまつげに守られているはずの瞳も負けないくらいの輝きを誇っていた。白いワンピースも丸みのある頬も、ワンピースから伸びる腕も全てが太陽の光をそのまま反射しているように眩しく見えた。
「おはよ」
ゴウは自分に向けられた挨拶であることを認識するまで少々の時間がかかってしまった。
「おっ、おはよう」
知り合いですらないのに、つながるきっかけをくれたこの言葉がとても大切なもののように感じる。それ以上の言葉を続けることができない自分自身をもどかしく感じながらも、挨拶に感謝をした。
「これ落としたわよ」
ゴウに水色のプラスチックで作られた何かの会員証のようなものを手渡した。
「ありがとう。君の名前は?」
ジョギングだけのためにやってきたゴウは、落とすものなど持っていなかったはずなのだが、会話を続けたいということばかりに意識が向いてしまい、冷静な判断などできやしなかった。首を傾げるような仕草を見せた少女に、ゴウは言葉を続けた。
「僕はゴウ」
自己紹介ね、と納得したように、少女は微笑んだ。
「私はエミ。よろしく」
よろしくという言葉は素晴らしい。その一言だけで、その場が収まってしまう。それが社交辞令で、取り立てて深い意味はないにしても、形がとれる。その言葉は相手に期待を持たせることもあるという側面をも含むのだが。
「こんな手前でサボっていたのか」
コクトウのこれまでになく低音の声がミューの耳に入った。ゴウの鼓膜も揺らしたはずだが、認知はされなかったようだ。
「こっ、コクトウ、なんかゴウの様子が変」
コクトウも改めてゴウを見つめた。確かに、変。コクトウは視線を左下に一度落とした後、ゴウへと戻した。
「何をサボっているの? 体力の限界?」
大きな声でハキハキと、と書かれたスローガンのよい手本となりそうなコクトウの声が辺りに響いた。その声に焦ったゴウは辺りを見回した。
「ゴウ、メモリ探しておいて」
コクトウに倣ったような声で、ミューが言葉を放った。
「えーっ」
ゴウは精一杯の抵抗姿勢を見せた。が、この女帝たちは無駄な抵抗だと思い至る。
「落とした場所のヒントは?」
「この辺」
河川敷一帯を指差すミューにゴウは頭を抱えた。
河川敷は広い。
凧揚げや花火を楽しむことにも十二分なほどに広い。
呆然と立ち尽くすゴウの耳に、シャワー浴びたら手伝ってあげるわよ。遠のいていくコクトウの声が届いた。大きくてもせいぜい一センチほどのサイズのピアスを、その対象物の何万倍以上もの広さの中から探し出す。しかも障害物つき。
ミューなら、どの地点を探して見つけられる可能性はどのくらいでという計算をして、その可能性の高い順に探していくって考えるんだろうなぁ。どう考えたら、その目処が立てられるのかも見当がつかないゴウは仕方なく、しらみつぶしに探していくことにした。
まだ少し横にあった太陽がゴウの真上に差し掛かった頃、ようやく帽子着用という姿でコクトウとミューが戻ってきた。午前中に感じていた爽やかな風は、すでに温風へと変わっていて、血がたぎり過ぎている節のある太陽がその情熱を思う存分、ゴウの肌へぶつけていた。
「お待たせ。お昼食べよう」
コクトウの声を確認して、ゴウは草むらから顔を上げた。コクトウは右手で持っていたクーラーボックスを顔の前まで持ち上げて見せた。
「ごめんね。面白い人と話していて遅くなっちゃった」
ミューは言い訳するように付け足した。ゴウが二人に駆け寄ると、ミューはゴウに帽子をかぶせて、タオルと日焼け止めクリームを手渡した。
「日焼け止め、塗り直さないと火傷になるよ」
汗をふき取りながら、ゴウはお礼を言って、すでに焦げ始めていた肌を見た。コクトウは、はい、と言って、ゴウに冷たく冷えたペットボトルを手渡した。
「まだ凍ってるよ」
冷たさを喜んだゴウだが、まだ氷のほうが大半を占めるペットボトルの飲み方に困ってしまった。批難の気持ちを込めたゴウの言葉はコクトウに笑い飛ばされてしまった。
「すぐ溶けるって」
コクトウはできるだけ日陰の芝の上を目指して歩き始める。お手ごろな場所にはすでに先客がいた。玄人向けの場所しか残っていないことがわかると、テーブルも用意されている日向のベンチに仕方なく陣取った。スポーツドリンクの氷は、コクトウの言葉通り、すぐに液体へと姿を変えていた。この氷のおかげで最後まで冷たさを堪能することができたが、代わりに、どんどん薄くなる味も受け入れなければいけなかった。
「ハム、ツナ、たまご、どれがいい? サンドイッチ。野菜は全部に入っているけど、残しちゃダメだよ」
特に野菜嫌いではないゴウは、首を傾げながら、ハム、と答えた。どうぞ、と言って手渡されたサンドイッチには、ゴウの苦手なピクルスが挟まっていた。
「メモリ、見つかった?」
「見つけられる可能性も見つけられなかった」
肩を落としてゴウが答えると、コクトウは、あはは、と声を立てて笑った。
「可能性ぐらい持っておきなさいよ。無気力な大人みたいな返事をする子ね」
相槌を求められたミューは目を細めて笑った。
「そういえば、さっき赤い顔して何してたの? 熱射病?」
ミューに聞いてもらいたくないことを聞く。
横目でコクトウを見ると、何とも楽しげな表情でゴウを見返していた。ゴウは正直には答えたくない気持ちでいっぱいになっていた。それでも、冷静になってみると、不自然なことが少なくとも一つは起こっていた。このことは、この二人には伝える必要があると感じていた。
「僕が落としたって、コレを届けられた」
ゴウはプラスチックの会員証のようなものをポケットから取り出す。改めて見ると、そこにはゴウには意味がわからない英語と思われる文章が並んでいた。
(What you don’t know won’t hurt you,
You’ll want to forget everything.
Don’t want regretful live any.
Who know?
To live have reasons take.
Won’t forget any reasons in you hurt everything.
Who take you TOKO?)
「何これ?」
ミューはカードをゴウの手からとりマジマジと見つめた。首を傾げてカードを眺めているミューは、考えを巡らせているのか黙り込んでしまった。
「TOKOって、コクトウのトーコじゃないの?」
ゴウの言葉に、コクトウは顔をしかめながら、ミューの手元をのぞきこんだ。
「サイテー」
コクトウは左上の方向を見つめて、あっ、と小さく言った。
「これ、縦横詩にならない?」
なんだそれは、という気持ちをたっぷり込めた表情でゴウはコクトウを見た。
「そうかも」
「なにそれ?」
勝手に進んでしまいそうな流れに、記憶の中にその言葉が見つけられなかったゴウは質問するしかなかった。
「えぇとね、横に読んでも縦に読んでも同じ文章になるってこと」
コクトウは、お財布や携帯の入った小さめのバッグの中を探し始めた。
「数が合わないよ」
「数は合わせるのよ」
反論したゴウに、ミューが答えた。コクトウがボールペンとレシートを取り出した。
「こんな感じ」
コクトウがカードの文章を書き直した。
What you don’t know won’t hurt
you,You’ll want to forget everything.
Don’t want regretful live any. Who
know? To live have reasons take.
Won’t forget any reasons in you
hurt everything.Who take you TOKO?
「本当だ。同じになった」
そうは言っても、これに何の意味があるのか、ゴウにはさっぱり検討がつかなかった。
「でも、これに何の意味があるだろうね?」
ゴウは心の中を読まれたのではないか、と驚いたが、ミューもただ単に疑問を持っただけのようだった。
「ペアになっていない言葉だけを抜き出したら、何かのメッセージができるとかあると、ドラマ性を感じるわね」
コクトウは楽しげな声を出して、ペアになっていない単語だけを抜き出した。
What You’ll Regretful Have In TOKO
「単語だけ見ても、あまり素敵な文はできなそう」
自分の名前という疑惑がかけられているコクトウは、深い溜息をついた。
「まあまあ、やるだけやってみようよ」
はじめから手伝う姿勢の見られないゴウの言葉に、一瞬だけ、ミューとコクトウの鋭い視線が飛んだ。そうして、ミューとコクトウは頭の中で文章を組み立て始めた。
「what you’ll have regretful in TOKO」
「you’ll TOKO what in regretful have」
文章を作ってみたところで、その文章に意味があるとは到底思えなかった。そもそもが、意味を成さない文字遊びのものに、意味を見出そうというのが無理な話なのかもしれない。
「お手上げ」
コクトウはツナサンドイッチをつまんで口に入れた。
「事件も起きてないのに、『オレ、犯人』なんていう主旨のメッセージが届くわけもないか」
ミューも相槌を打つと、カードをゴウに返して、オレンジジュースを口にした。ゴウはカードをハーフパンツのポケットに押し込んで、タマゴサンドイッチに手を伸ばした。
「そういえば、ミューがさっき話したっていう面白い人って誰?」
ミューは、あぁ、と言ってクスッと笑い、コクトウに目だけで合図した。
「アサミさま」
「アサミさま?」
ゴウが聞き返したのが面白かったようで、コクトウはお腹を抱えて笑い出した。ミューも面白そうにクスクスと笑っている。
「『アサミさま』ってだれ?」
自分だけ仲間はずれにされている気持ちになり、ゴウは少々不愉快だった。
「空耳サンダー」
息を整えたものの、それだけ言うのがやっとというような感じでコクトウが返事をした。
「わからないよ、それじゃ」
ミューも、お腹が苦しい、と言いながら、息を整えた。
「教えてあげるわよ」
「へぇ。よくわからないけど、面白そうな人なんだね」
ミューの説明を聞いていたゴウが率直な感想を述べた。よくわからない、という説明だったことにミューは肩を落とした。理路整然とした会話を好むミューには、その感想は大きなダメージだったのだろう。コクトウの目が、「大丈夫、私もよくわからない説明しかできないわ」と語りかけているようだった。
「それより、本当に何か心当たりないの? まだ、ミューを見ているわよ、あの子。おじさんのほうは消えたけど」
コクトウは楽しげに言うと、ミューの顔にあった視線を少し右側にずらした。ミューとゴウがコクトウの視線の先に目をやると、首だけを不自然に横へ向けた少年がいた。
「あの子?」
ゴウは横顔を見せるように立っているユニフォーム姿のサッカー少年と思しき人物を指差した。自分より年上に見える少年に対して、あの子というのは落ち着かない気持ちになったが、コクトウの言葉に倣った。
「全くもって知らない子だわ」
やはりミューから出たのは溜息だ。
ゴウは、いつものことながら、そういったことに鈍いともいえるし、冷めているともいえる従姉弟に思いを寄せてしまうファンに、哀れみの混ざった目で見つめた。ミューに好きな人などいるのか、もしくは恋人がいるかは、気にならないといえばそれは嘘になってしまうけれど、わかりかねることだった。ただ、ゴウが思うに、ミューはただ言い寄ってくるような人にはなびかない。可愛い彼女がほしいなら、ほかを探したほうがいい、心の中でそっと哀れな少年にアドバイスを送った。
そんなゴウとは反対に、コクトウはニコニコと楽しそうに微笑んでいた。
「恋の予感ねぇ」
たぶん、コクトウも本気でそんなことを思っているわけではないとゴウは感じていた。
「興味すらないわ」
「いいじゃない」
浮かない顔のミューとは対照的に、コクトウは実に楽しそうだ。
「最近、人生自体が慌しくて、この手の話題、ご無沙汰しているんだもん。楽しげな雰囲気だけでも味わいたいの」
「ミューは高嶺の花なんだよ」
ませた口ぶりでミューに言い聞かせようとするゴウには一睨みが与えられた。自分の身に起きたことでない二人は、心から楽しんでいるとしか思えないノリだ。ミューにしてみれば、その視線が何を暗示しているのかわからず、心地よいとはいえなかった。本来であれば、手元にあるはずのメモリは、昨日、この近くでなくなっている。その少年が鍵を握っているのかもしれない。ミューが感じ取ったのは、恋の予感ではなく、波乱の予感だった。それでもメモリを取り返さなければいけない。
ミューは、少年のすぐ目の前までやってきていた。目の前に立ってみると、少年のほうが、ほんの少しミューより背が低いのがわかった。
「こんにちは。勘違いなら申し訳ないけれど、わたしに何か用があるんですか?」
声に苛立ちが含まれないよう細心の注意を払って、ミューは質問する。ミューは、少年からの返事を待っているが、ミューもあまり気が長いとはいえない。下を向いて黙ってしまった少年に、少々、機嫌を損ねたようだった。ゴウであれば、不機嫌になっていることを感じ取っただろうが、少年には伝わっていないようだった。
「おぉっと、目の前に立った。コクトウはどう出ると思う?」
非常にストレスフルな対応を余儀なくされているミューの気持ちなどお構いなしに、コクトウとゴウは、離れた場所で、そのドラマを楽しんでいた。
「男、逃げ出す」
「えーっ。愛の告白をするよ。かけてもいい」
「マセガキ」
コクトウがゴウを軽く小突いたと同じタイミングで、少年の声が二人の耳にも届いた。
「ボッ、ボク、見たんだからな! お前たちが降ってきたこと」
それは、ジョギング中の人々にしてみれば、電波系と認識されるものだが、当事者であるゴウは思わず苦虫を噛み潰したような顔になってしまう叫びだった。
「告白は告白だけど、全くもってありがたくないよ」
「効果音がない上に、崖の上でもないとドラマっぽくないわ」
予想外の展開に、初恋ストーリーの甘酸っぱさを見守る気持ちから、サスペンスドラマの容疑者Cにでもなった気持ちに変わってしまったゴウと、あらためて演出効果の大切さに気づいたと驚くコクトウは、ミューにしてみれば能天気そのものだった。
「だから?」
サイクリングロードの道幅約十メートル分は少なくとも離れている場所からでも、ゴウはミューの不機嫌オーラを感じ取った。ゴウの背中に一筋の汗が流れた。ここまでの不機嫌さを表すミューは久しぶりだった。ゴウは、先ほど期待していた理由とは違うものの、ドキドキと胸の音が高鳴り始めているのを感じる。そんなゴウの心のうちなど知る由もない少年は、真っ直ぐに向けられたミューの視線を避けるかのように、視線を彷徨わせていた。ミューは、ドンと構えていて、視線を外すことはなかった。
「お前らなんて、宇宙人だー」
視線に耐えられなくなったらしい少年は、脱兎どころか犯人を乗せたやまびこに匹敵する速さで逃げ出した。彼の叫びは、ジョギング中の人々を高電圧の電波を感じさせ、「なんでそうなる?」というツッコミをゴウに、「青い過ち」という呆れをコクトウに、「意味がわからない」というイラつきをミューに残して、眩しすぎる日差しの中に消えた。
コクトウは思い出したように、右手をゴウに差し出した。
「なに?」
「賭け、勝っちゃった。夕飯おごりかな?」
「『告白』してたよ」
「ゴウの想定内の告白じゃないでしょ?」
余計な一言を付け加えなければ、引き分けだったかもしれない。色恋沙汰に限った告白だと伝えてしまったゴウは、己の正直さを憎たらしく感じた。
「メンチカツ、一つ」
「メンチはやめて。私のライフを奪う上に、緑色の画面になっちゃうわよ」
ゴウは密かにメンチにしようと決めた。
「毒消しはあるの?」
「探してるところ。とにかくやめて。胃をミンチにされるくらいなら、タバコのポイ捨てするオッサンにメンチ切るほうを選ぶわ、私」
「いいこと聞いた」
ニヤリと笑うゴウの目が鋭い光を捉えた。ゴウの体は本能的に何かを察知し、震えた。
「この上なく若々しく見えても、三十路‘sなのよ」
ライフを奪おうが、攻撃力をいくら奪おうが、先に倒されてしまう予感がして、ゴウは、決意表明を撤回することを考え始めた。そんなことを言うなら、賭けは無効にしてくれというゴウの気持ちは、心の底に仕舞いこむ。どうにもこうにも、ゴウはミューとコクトウに勝つことができないと感づいていた。
「ハムカツにするよ」
変わってねぇよ、というコクトウのツッコミの前に、別の声がゴウの鼓膜を揺らした。
「できれば、一期一会であってほしい」
疲れた様子でミューは、二人の元に戻ってきた。
「お、おつかれ」
賭けをしていたなどばれたら、ますますミューは不機嫌になりそうだ。
「何がお疲れよ。なんなのあれ? 脳みそ煮沸消毒してやりたい」
「まあまあ、それでも恋になっちゃうかもよ?」
賭けに勝ったコクトウは、楽しそうな笑顔だった。
「恋じゃなくて、イラつきのあまり変になりそう」
ミューの不愉快な気持ちも、ゴウの望んでいないドキドキする気持ちも、あの少年の気持ちも、そこにいた全ての人たちの気持ちもジリジリと焼き尽くしてしまうような日差しの中、コクトウは、帰ろうかと提案した。たとえクーラーがなくても、まだ日陰があるはずのコクトウの部屋ほうがマシだと感じる。影を作ることも許さない厳格な太陽が、部屋へ戻ろうとするコクトウたちを照らし続けていた。