隅田川と荒川をわける中州に立ち、ゴウは一人呟いた。
昨日の可愛い女の子に運命の再会ができたのなら、それでも来た甲斐があったというものだが、辺りを見回して目に入るのは上半身裸のおじさんくらいだった。目の前に広がるのは、雄大という言葉がぴったりとくるような広さの川の水だけ。たっぷりとした水が、正面から、横から注がれて、ゴウの左右にゆったりと流れていった。
知らずにのんびりした気持ちになっていくゴウは、上半身裸のおじさんたちとファミリーになってしまう手前で、のんびりした気持ちが吹き飛んでしまうものを見つけた。
一方、その頃のミューは、自転車にあるまじきスピードで河口地点を通過したところだった。どこからが海で、どこまでが川かなどよくわからない。けれど、確かにそこは淡水と海水の入り混じる場所だった。埋立地が多くて、洗練された都市に開発されていく東京湾はミューの中にある海というイメージとは違っていたが、海だった。
「意外ときれい」
辺りを見回したミューの目が人影を捕らえた。
罠かもしれない可能性が笑顔で戻ってきたような気がした。
幸い、相手はまだミューの存在に気づいていないようだった。相手に気づかれないように観察するミューの配慮など不要というように、その人影は、川面のただ一点を見つめ続けていた。
時折、川から吹いてくる涼やかな風が、海と川の合流地点を見つめ続ける人物の柔らかそうな茶色の髪を揺らしていた。揺らされた髪は、いい仕事を続けている太陽の光にさらされて金色に輝いていた。人影は自分と同じ年の頃合の女の子と思しき人のものであることをミューは確認した。同じ年頃の人物に昨日、散々面倒くさい目に遭わされたミューは、関わらないほうが得策と判断し、その場から視線を外した。
目に映るのは、ゆるゆると動き続ける川面。合流分岐の連続で渋滞しているように見える首都高のブレーキランプの川。動いているのか止まっているのか、よくわからない観覧車。たまに目の前を通り過ぎる小型船やボート。この景色に何か、ヒントとなるものでも隠されているというのだろうか。それとも、もっと近くのもの、たとえば、足元に転がる小石、雄雄しく育った草。誰かが故意に置いた、あるいは隠したと思えるものは何一つ見つけられることはできなかった。
そうなると、やはり残された可能性は一つ。
ロールプレイングゲームなら、ヒントをもらうには村人に話しかけるのがセオリーだ。でも、人生はそううまくはいかない。けれど、ほかのどの可能性を見ても、全てがヒントにはなりえない気がして、また逆に、全てがヒントになりえてしまう気がして、皆目検討がつかない。仕方なしに、ミューは、面倒臭い予感とゲームとは相容れないという思いから、避けていた可能性に注目した。マイワールドに埋没している人に声をかけることほど勇気が必要なことなど、そう数多くはない。
「何か用?」
相手に先制されてしまった。女の子にしては少し低い声だった。どうして声をかけようとしたのがわかってしまったのか、ミューには不思議だった。足音も立てていないはず。
「人が近づく気配がしたんだ。空気が吸い込まれたから、声を出すんだろうと思って」
不思議に感じていたミューの気持ちを読んだかのように伝えてから、その人物はようやくミューのほうを向いた。、ミューが一瞬息を飲み込んでしまうきれいな顔立ちをしていた。
「すごい観察力」
「気を張り巡らせなくても、伝わってくるんだ」
「なんでわかったの? そのメカニズムが知りたい」
真剣な眼差しに変わったミューの前で、美人は立ち上がった。
「空気が伝えてくれるんだ」
ミューの頭の中で、空気の振動を使ってコミュニケーションをとる機械ができないものか考えてみた。近づいてきた美人を見て、ちょっと違和感を覚えた。百六十センチのミューを見下ろすように見る美人は、百七十センチくらいだろうか。モデル体型に羨ましさを感じていたミューだが、残念なほど女性の特徴が見当たらないことに気づいた。
「で、俺に聞きたいことって何?」
ミューは、言葉を失った。こんな美人が男だったのかという理由なき敗北感と、自分自身の未熟な観察眼に打ちのめされていた。さらに、その質問にも困っていた。確かに、ヒントになるのではないかと思って、声をかけようとしたが、まさか正直に事情を話してしまったら、自分のほうが数段怪しいではないか。考えのまとまらない頭のまま、ミューがようやく意を決し口を開いた。
「ここで何してるの?」
「ボーっとしてる」
ミューは関わったことを後悔し始めていた。どこかにヒントが隠されているのかもしれないという、僅かばかり残る期待だけがミューの会話を続けようという気力の源だった。
「いい眺めだもんね。ここ」
「そう?」
せっかくの会話は途絶え、ミューは顔を川面に向けたまま、出かけにゴウに送った視線と同じくらい力のこもった視線だけを彼に送った。その空気を察したのか、彼は横目でミューをチラリと見た。
「でも、ここの空気は優しい」
むしろ強風という心の内のツッコミが伝わらないようにミューは細心の注意を払った。この強風は全てを吹き飛ばしてしまうような気持ちにすらさせる。
「何か忘れたいことでもあるの?」
彼は一瞬だけ訝しげな視線を送ったが、すぐに解いて、川面を見つめた。
「覚えていたいことがあるのか、忘れたいことがあるのか、あるいは何も覚えていないのかもしれない」
「それって、答えになってない」
「自問自答しても見つからないことを君が聞くから」
「まぁ、それもそうか」
ミューが小さくクスッと笑うと、彼はようやくミューのほうに顔を向けた。
「やっと笑った」
「えっ」
「君の周りの空気が痛かった」
聞き返したミューに対しての返事は真面目だった。ミューは、河川敷にいる人とはどうも波長が合わないようだと、この数日で感じ始めていた。
「どういうこと?」
どうにか協調の道を探ろうと、ミューは健気にも会話を続けた。
「緊張は空気を揺らすんだ。不安も」
「へぇ、そこまでの緊張はしてなかったと思うけど?」
「君は変わってるね」
「いや、それは間違ってるわ。あなたのほうがよっぽど変わり者だわ」
「そうかな。俺を変な目で見なかったのは、君が初めてだ」
「いえいえ、これ以上になく、変な目で見させていただいているから、ご心配なく」
ほとほと疲れたと、正直な自分の気持ちをミューは伝えた。
「だって、変な気を使ってない」
「なにに?」
「見た目」
なんという自惚れ屋だろうか。確かに見惚れたことは認めよう。だが、なかったことにしていただこう。ミューがそう思い至ったとき、自分の目を指差す彼に気づいた。髪の毛の茶色と同じ色の眉毛の下には、明るい茶色の目が右に、青い色が左に収まっていた。
「あなた、その目がコンプレックスなの?」
「そこまであからさまに言われるのも初めてだよ」
「で、その目がどうしたの?」
なおも目を見つめ続けているミューは、彼が唾をゴクリと飲む音を聞いた。
「普通じゃないって」
ミューは思わず吹きだしてしまった。少なからず傷ついたという表情を見せている彼を無視して、ミューはお腹を抱えて笑い続けた。
「ごっ、ごめん……思い出し笑い……」
やっとの思いで、ミューはそれだけ言うと、笑い続けた。コクトウと、今晩、その正体が明かされるサンダーが思い浮かんだ。国籍も年齢も不詳に見える上に、自分が法律と言い切りそうな態度の二人が、彼の愁傷な言葉を吐くところを想像してしまったのだった。
「それって、ものすごく大きな悩み?」
「小さくはない」
「じゃあ、ちょっとって言ってもここから二十キロくらいはあるけど、寄っていかない?」
あまりのおかしさに、ミューはそんな誘いをしてしまった。コクトウの異常事態への適応を見れば、無銭飲食をしない限り、人一人拾っても文句は言わないだろう。
「どこに?」
突然の誘いに驚くのは常識人だった。
「今、お世話になっている従姉妹の家」
「なんで?」
彼はありきたりの疑問を口にした。
「たぶん、『普通』が音を立てて壊れるから」
ミューはニヤリと笑った。
「へえ、それは興味深い」
「それは、行くってこと?」
彼が頷いたのを確認して、ミューはごく『普通』の質問をした。
「お家には連絡しないで大丈夫?」
彼の目には冷たい光が宿っていた。
「家は大丈夫。そういえば、君の名前は?」
「実羽。長谷川実羽。『ミュー』でいいよ」
「俺は、千原、千原瑛人。よろしく」
千原少年は右手を差し出した。
「待てっ」
そう言って待つ人はいないだろうと思いながらも、ゴウは声に出して、追いかけた。まさか、自分がそいつの後を追いかけることになるなどとは、夢にも思っていなかったゴウだが、追いかけなければいけない理由が生まれてしまった。
待てと叫びながら追い続けるゴウには、残念なことに、相手に有利な勝負だった。相手は自転車に乗っていて、ゴウはない。それでも、ここで勝負自体を諦めてしまったら、ミューの怒りを買ってしまうのは目に見えている。
「待て! ハヤマ」
「なんでボクの名前を知ってるんだ?」
驚いて振り返った顔は、はやり昨日、ゴウたちを宇宙人と呼んだあの少年の顔だった。
「背中に書いてある」
少年が着ていたユニフォームの背中には、親切に名前が入っていた。その隙に、距離を縮めたゴウは、このHAYAMAを追いかける羽目になってしまった理由をマジマジと見た。
「ミューのメモリを返せ!」
あと十センチで手が届くというところで、ゴウは叫んだ。正直に言うと、ミューが言うメモリそのものなのか自信はなかった。けれど、このサッカー少年と思しきハヤマに似合わないピアスが、彼のかぶっている帽子に輝いていることは異様としか思えなかったのだ。
「メモリ? 何のことだよ? ミューってあの女か?」
「ピアス」
さすがにメモリと言ってもわからないか。あの女というのは、ミューのことで間違えないだろう。ゴウには、コクトウを指しているとはどうしても考えられなかった。
「そのピアスはどこで手に入れた?」
ゴウは確実にハヤマとの距離をつめていった。
「もらったんだよ」
「だれに?」
その答えは重要だった。たぶん、ミューにとっても、ゴウにとっても、そして、コクトウにとっても。
「知らないおじさん。持ってると幸せになるって、だから好きな子に渡すといいって」
ある意味、ハヤマが持っていたことは幸運だとゴウは感じた。それなら、近々、メモリがミューの元に戻ってくるのは時間の問題だと思われた。ただ、ハヤマにミューと向き合う勇気があるかどうかは大いに疑問だった。それよりも、
「知らないおじさんって、どんな人だった?」
このことが大切だと思った。
「知らないよ。知らないおじさんだって言っただろ」
「何か覚えてないの?」
これはミューでなくともイラついてしまうかもしれないという予感が確信に変わった。
「だから、おじさんだった」
確かに「変」な気持ちが生まれそうだとゴウは頭を抱えた。
「あの女は『ミュー』っていうんだな?」
「そうだよ」
とりあえず質問に対しての答えを返すと、ゴウはハヤマに詰め寄った。だから、返してと、問答無用で奪い取ってやろうと考えたのだった。けれどハヤマは、予想に反して、勘がよかった。すぐそばに迫った手からスルリと逃げおおせた。あと少しというところで、この場でのハヤマの唯一の武器ともいえる自転車のペダルを踏み込んで距離を開いた。
「そいつのだっていうなら、本人が取りに来い」
そう叫びながら、ハヤマは隅田川を渡っていった。
まぁ、もっともな反論だよな。ゴウはそう思いながらも、叫ばずにはいられなかった。
「どこに行けばいいんだよ」
その答えは戻ってくることはなかった。ハヤマの姿もすでに見えなくなっていた。
「残念だけど、お前みたいな面倒な奴をミューは一番苦手としているんだ」
あまりにも報われないと思われるタイプのハヤマに少しばかりの哀れみとできれば関わりたくないと思ってしまう面倒臭さを感じて、ゴウは一人呟いた。そして、すでに見えなくなったハヤマを思うと、ゴウの気持ちはますます気が重かった。
帰って、何をどう説明しようか。