仮レ宙

13, Fact is stranger than fiction.
《事実は小説より奇なり》

日課になりつつある朝のジョギングを終えると、コクトウは、今日は予定があると二人に伝えた。
「ミュー、今日はどうする?」
シャワー待ちをしているゴウは、同じく順番待ちのミューを見上げて聞いた。ミューの目が一瞬キラッと光ったように見えて、ゴウはその返事を待たず、口を開いた。
「ハヤマを探すの?」
まさかサンダーのように葉山へ行くとは言わないだろう。昨日、ハチにハヤマの居場所を聞かなかったことをゴウは軽く後悔していた。
「今日は、この世界のおじさんとおばさんを探してみない?」
ミューが提案したことと、ハヤマを追いかけることをゴウは天秤にかけるようにして、比較した。ハヤマと関わりたくないだけかもしれないけれど、ゴウが求める真実に近づくことができるかもしれないという考えに至った。第一、フラフラしているハヤマより、そちらのほうがよっぽど居場所の検討がつく。

ミューの意見をすると大きくゴウが頷いてみせたところで、コクトウが部屋に入ってきた。
「ミュー先どうぞ。場所は調べておくよ」
「紳士じゃない」
ゴウの最後の言葉だけを聞いていたコクトウは笑った。ミューは、ありがとうと言って、バスルームに消えて行った。
「コクトウは何時ごろに出かけるの?」
濡れた髪の毛をタオルでふき取るコクトウにゴウは聞いた。
「うん。やっぱり今日もお昼食べてから。帰りは十八時くらいかな? それよりは早く帰ると思うけど」
「約束?」
「古い友達と会うのよ」
コクトウはたいしたことじゃないというように短く返した。そう言われてしまうと、深く追求することもできない。
「ねぇ、地図を貸してくれる?」
「いいわよ」
タオルをターバンのように巻いたコクトウが、パソコンテーブルの下に屈みこんだ。ゴソゴソと何かを動かす音がしたあと、あったという声が聞こえてきた。
「はい」
「ありがとう」
「どういたしまして。何に使うの?」
「パパとママが、この世界でどうなっているか見てみようと思って」
ゴウはそう言いながら、多摩地方のページを開いた。
「多摩に住んでいるの?」
「おばあちゃんの家があるんだ」
「そうかおばあちゃんか」
「ゴウのパパとママが二人仲良く暮らしていたら、おばあちゃん家にはいないんじゃないの?」
食い入るように地図を見ているゴウに、コクトウは質問を投げかけた。
「そうしたら、おばあちゃんから聞き出してみる」
「まさか、また『未来から来ました』なんて言っちゃうの? 止めたほうがいいわよ」
「さすがにしないと思う。ミューが何か考えてくれるよ」
ゴウの返事に、コクトウは苦笑いしてみせた。
「あんたは、本当に可愛い奴ね」
コクトウはゴウの頭をクシャと撫でた。

ミューとの協議の結果、お昼を食べる前に出発することになったゴウは、目的地を目前にして、忘れようとしても忘れられない胃袋の存在を強く意識させられることになってしまった。
「お腹減った」
ゴウのエネルギーとは逆に太陽のエネルギーは、最高潮に達していた。お腹のことばかり気になってしまうゴウと違い、ミューはあちらこちらを余すことなく観察するように見回しながら歩いていた。
「変わらないね」
祖母の家の前に到着したゴウは、空腹であることを忘れようと念じながら、ミューに話しかけた。ゴウは祖母の家の表札を見たが、そこには、変わらず、「長谷川 和夫・千代・直人・悠」と書かれていた。ミューはゴウの言葉になかなか返事をせず、家の前をウロウロし始めた。
「何か、違う気がするの」
ミューは浮かない表情で家を眺めていた。ゴウやミューが住んでいるような集合住宅ではない戸建ての家。庭には、逞しく育ったブルーベリーが生い茂っていた。ゴウやミューが遊びに行くと、二階にあるかつての子ども部屋に泊まるのが決まりだった。ミューは黙って、門扉の前から、その二階の窓を見つめていた。
庭の中の様子は、ブロック塀と高めの門扉に囲われていて、ゴウには覗くことができない。
玄関のあたりから、人の話し声のようなものがすることにゴウは気づいた。ミューに視線を走らせると、ミューも気がついていたようで、小さく頷いた。
「それじゃ、来週またお伺いします」
とても聞き慣れた、そして、聞き間違えなどない声だった。
「楽しみにしているわ」
この家の主である祖母の声が聞こえてきた。
「じゃ、また連絡する」
この声もまた、聞き間違えなどありえない声だった。この家で、この二人の声を聞くのは自然だとしても、残りの二人の声が聞こえないことがひどく不自然だった。できれば知らないほうがいいことが、まもなく目の前に突きつけられるような気持ちをゴウは感じ取った。普段のミューならば、早々と身を潜める場所を見つけ動き出していただろう。けれど、ミューもまたゴウと同じように、その声の出現から、動きを忘れたかのように、立ち尽くしたままだった。

さすがに、まずいと気づいたのは、ガチャと門扉が開く音がしてからだった。その開いた門扉にミューはぶつかってしまった。思わぬ障害物に気づき、家のほうに顔を向けていた人物が、その顔を正面に向けた。ゴウは、思わず、息を飲み込んだ。
「ママ」
ゴウが知るより若い母親、高橋彩がそこにいた。彩は、門扉をぶつけてしまったミューに謝罪することに精一杯という様子で、ゴウには気づかない。彩がミューを心配して、何度も繰り返す、「大丈夫?」という言葉は、耳から離したイヤホンから聞こえてくるどこか変な音のようにゴウには感じられた。
「どうした?」
外にいる何かを心配するように発された声、そして、その次に現れたのは、ミューの父親であり、ゴウの大好きなおじさんである直人の姿だった。
「開けたときに、ぶつけてしまって」
そう直人に説明する彩の声も、すみません、と一緒に謝る直人の声も、ミューの耳に入って、そのまま流れ出るように消えて行った。

何かが足りない。
けれど、その何かは、ただ、今、いないだけなのかもしれないという可能性がミューを動かした。
「いいえ、こちらこそ、すみません。ボーっと歩いていて」
ミューのその言葉を聞いて、直人と彩は微笑んだ。
「本当に怪我はありませんか?」
「ありません。本当にすみません」
ミューはゴウの手を取り、門の前から離れた。すぐ近くの角を曲がり、ミューとゴウは身を潜めた。耳を澄ますと、二人の会話がかろうじて聞こえてくる。
「何時くらいに帰ってくる?」
彩の声だった。
「わからないけど、遅くないと思う。知り合いに借りていたものを返すだけだから」
直人の声が返ってきた。
「遅くなるようなら、連絡してね」
「わかった」
ミューとゴウは身を固くした。足りない二人は、本当に足りない。コクトウが独身であり、そこに身を寄せている以上、コクトウが欠けているのは知っていたが、ゴウの父親であり、直人の弟、彩の夫である人がいないことは予想していなかった。聞こえてくる会話は、どうしても、そこにもう一人いることを想像するのが難しいものだった。
「ミュー」
かろうじて体の外に出ることができたその声は、ひどく掠れて聞こえた。
「静かに」
ミューは口の前で人差し指を立てながら、真剣な眼差しで、ゴウに命じた。彩と直人の姿がその通りから完全に見えなくなったのを確認して、ミューはゴウに向き直った。
「別次元だもん」
自分自身に言い聞かせるように、ミューは大きく息を吸い込んだ。
「でも、中に入ってみないと、本当のところはわからないかも」
ミューの様子を見て、ゴウもいつもの調子を取り戻そうとした。
「中に入るの?」
「できれば」
ミューは再び歩き始めた。
「どうやって」
「今、足がかりを探してるの」
ミューは、塀に囲まれた祖母の家の周りをゆっくりと進んだ。先ほどまでは、上を向いてばかりだったのに、今のミューは足元ばかりを見ていた。
「なにを探してるの?」
ミューは完全にいつもの調子を取り戻して、ニヤリと笑った。
「おばあちゃんが得意なことよ」
ゴウにも思い当たるものがあった。ゴウは立ち止まって、ミューの髪の毛が風になびいて揺れるのを見た。
「ミュー、それなら今日はこっちだよ」
ゴウはミューの手を引っ張って、走り出した。得意とはいえども、必中とはいかないそれがある可能性は高くはなかった。祈るような気持ちで、ゴウは祖母の家の裏にある公園に向かった。ゴウの祈りが通じたのだろう。
「あった」

手にしたのは、バスタオルだった。祖母は、しわをきちんと伸ばして洗濯物を干すくせに、大きなものが風に飛ばされないように止める洗濯ばさみを止め忘れて、飛ばしてしまうことが多かった。洗濯物が飛ばされて、戻ってくるたびに、これはおじいちゃんのところに飛んでいって、汗を拭いてきたのが戻ってきたんだよとか、着替えを間違えて持って行ったことに気づいて返したんだよと笑いながら話していた。おじいちゃんは、もうずっと前からいないのに。
おじいちゃんが使ったバスタオルを持って、ゴウはおばあちゃんの家の門扉の前にむかった。ミューがインターフォンを押して、返事を待った。
「はい」
いつもの声が聞こえてきた。
「洗濯物を公園で拾ったのですが、お宅のでは?」
ミューが言うと、一枚足りなくて探していたの、ありがとう、という声が機械から聞こえてきた。
ガチャという音がして、インターフォンでの通話が終わって、しばらくしてから門扉が開かれた。
「これ」
ゴウが祖母に手渡すと、祖母は目を細め、大切そうに受け取った。祖母の目は、ここではないどこかを見ているようにも見えた。
「ありがとう。息子のものが飛んでいってしまったみたい」
祖母はゴウやミューが知っている祖母より、ずっと若いのに、知らない深いしわがあった。何かが引っかかる。そう思っても、会話を広げる糸口を見つけられず、ミューは焦り始めていた。
グ、ググゥ。
限界を迎えていたものの、どうにか緊迫した事態に遠慮していたゴウのお腹がここにきて、その存在を十二分にアピールした。我慢の足りないお腹に、ゴウは深い溜息をついた。
「お腹減っているの?」
タオルに向けていた視線をゴウに向けて、祖母は聞いた。ゴウが面目ないというような表情をして、顔を上げると、優しく微笑む祖母と目をキラリと光らせてニヤリと笑うミューの顔が目に入った。
「お腹が減って倒れそう」
ゴウは大げさにお腹を抱える素振りを見せた。ゴウがチラリとミューに視線をやると、ミューは、上出来、というような表情でゴウを見ていた。祖母は、あらま、と言って、クスクスと笑った。
「拾ってくれたお礼に、ご馳走しましょうか?」
ゴウの視線にあわせて聞く祖母の後ろに、よくやったというように、笑顔で親指を立てるミューが見えた。
「いいんですか?」
つらい中に、小さな笑みを祖母に見せて、ゴウは聞いた。これは学芸会レベルじゃなくて、主演男優賞を狙う子役にでもなれるんじゃないかとゴウは心の中で考えていた。
「ええ」
祖母は微笑んで、二人を居間に招き入れた。

祖母はお茶菓子を勧めたあと、台所に向かった。バターの溶ける匂いが漂い始め、ゴウの食欲を痛いくらいに刺激した。
リビングで待っている間に、部屋の中を見回してみたが、何も変わったところはないように見えた。
壁の傷の位置も少し曲がった柱も、何もかもが同じに見えた。ただ、何かが違う感じがしていた。
お腹が減って倒れそうというゴウへの配慮からか、祖母は早々とお皿を手にして戻ってきた。皿の上にあったのは、ゴウもゴウの父親も大好きなオムライスだった。ゴウと一緒に喜ぶ父親を、いつも母親は子どもっぽいと笑っていた。バターの香りとトロトロの卵がゴウを幸せな気持ちにしてくれた。ミューは、オムライスというものを好まないのだが、この祖母のオムライスだけはケチャップをかけると美味しいと言って、食べた。
「おいしい?」
無意識に笑顔になっていたゴウに、祖母もつられたように笑顔になって、聞いた。でも、その祖母の笑顔は、いつもの笑顔と少し違うような感じを二人に与えた。
「おいしいよ。これ大好き」
その違和感を払拭するような屈託のない笑顔で、ゴウは答えた。
「よかった」
微笑む祖母は、どこか少し別人のようにも見えた。知らないところで何かがあったのかもしれない。
ゴウはそう考えたが、その何かを祖母に聞いてはいけないような気がしていた。
「なにかあったんですか?」
スプーンを持つ右手を止め、そのやり取りを見ていたミューが突然、口を開いた。切り込んじゃったよ、と、ゴウは批難と呆れの入り混じった視線をミューに送った。ミューの真剣な眼差しは、それを跳ね返した。
「どうして?」
祖母の声はどこまでも優しかった。
「とても寂しそうに見えてしまったの」
ミューは真っ直ぐな目で、祖母を見た。まるで、何一つ見逃さないと言っているようだった。祖母はフフッと笑いをこぼした。
「ごめんなさいね。あなたたちがとても似ているから」
僕とミューは似てないと、ゴウは小さく反論した。
「違うのよ。おばちゃんの子どもに似ているのよ。二人とも表現は違うけど、優しくて」
そう話す祖母は、やはりどこか寂しげだった。
「来月には結婚式を迎える大人と一緒にしちゃって悪いけど」
「二人とも一緒に?」
「一人は、二年前に事故で死んでしまったわ」
祖母は静かな声で伝えた。ミューもゴウもさすがに息を飲み込んだまま、言葉が出なかった。嫌な違和感はここにあったことに気づかされた。
「ごめんね。変な話しちゃったわね」
黙ってしまった二人を見て、祖母が謝った。ミューは俯き、首を横に振った。
「こちらこそ思い出させちゃってごめんなさい」
「たまには思い出してあげないと、私もみんなもつらいだけよ。それに彼らも寂しいでしょ」
ミューが顔を上げると、笑顔の祖母がいた。
「それにあなたたちと会えたのは、今、笑っていられるのは、そういうことがおばちゃんにあったからだわ」
微笑む祖母に、ゴウもミューも何も言うことができなかった。


「まだ、帰るには早いね」
知らずに落ちてしまう視線を持ち上げて、ゴウはミューに声をかけた。多摩の祖母の家からどうやって戻ってきたのか、ゴウはよく覚えていなかった。行きはすごく時間がかかったのに、帰りは時間が存在していなかった気もしていた。気がつけば、もうコクトウの家からの最寄り駅だった。
「河川敷にでも行く?」
ミューはなんとなくといった様子で、そう提案した。ゴウはその提案に飛びついた。ただ、なんとなく行きたかった。ジョギングで行きなれてしまった河川敷は、なんとなく居心地がよかった。いろいろな情報を詰め込みすぎてしまったときには、何も遮るものがない河川敷の空がちょうどよかった。 行き先は決まった。
定刻までの時間はかなりたっぷりあるようにも思えた。自然と二人の足もゆったりとしたものになる。
「あれっ? コクトウじゃない?」
ミューが指差す先には、確かに間違いようのないコクトウ、その人がいた。
「用事終わったのかな?」
二人は信号の先にいるコクトウを目で追った。
「有料エリアに入っちゃうよ?」
ゴウはコーヒーショップに入ろうとするコクトウに焦りを感じた。
「あのケチなコクトウがコーヒーのために、店に入るなんて」
動揺しながらも、二人は未だ赤に点灯している歩行者信号を睨んだ。
「見に行ってみようか?」
同意など求めなくとも、答えはわかっていたが、ゴウは口にした。もちろん、というミューの返事とともに信号がようやく青に変わった。二人は合図することなく、一斉に走り出した。
ガラス張りのコーヒーショップの奥のほうにコクトウがいるのが見えた。コクトウの前には、誰か男の人が座っているようだった。
「デート?」
「友達って言っていたのに。シカだったらイヤだなぁ」
ミューが黙って、その人物を見極めようとしていたが、コクトウも男の人も横顔が微かに見えるという具合だった。
「入ってみよう」
ミューがゴウの手を引いた。
「お金ないよ」
「わたしも」
ミューはニヤリと笑った。お金がない二人がどうするんだとゴウは不思議に思っていたが、ミューは人ごみになじんで、うまく店内に滑り込んだ。混雑する店内を踊るように抜け、二人はコクトウの近くの席まで辿り着いた。コクトウの背後のカウンターに身を潜めるようにして席を確保したが、残念ながら、その席はレジの前で、店員からはバレバレだった。
「仕方ない。ちょっと待ってて」
ミューは、本日のコーヒーのスモールサイズを片手に戻ってきた。
「二百九十円の痛い出費だわ」
ゴウの耳元で小さくぼやきながら、席に着いた。二人の席から、コクトウの話し声がどうにか聞き取れるというような感じだった。背筋を伸ばすようにして、カウンターから様子を見たミューが固まったように、ゴウには見えた。
「どうしたの?」
ミューにだけ聞こえるように、ゴウが囁くと、ミューは、パパ、と独り言のように呟いた。慌てて、ゴウも確認すると、そこにはよく知る、そして先ほど会ったおじさんがいた。
「本当に驚いたのよ。ナオから連絡もらうなんて」
何度か繰り返したのだろう言葉をコクトウは明るい口調で言って、コーヒーを一口口に含んだ。背中を向けているコクトウの表情は見ることはできなかったが、声の様子からして、笑顔なのだろうと推測できた。直人もまた、照れたような笑顔を見せていた。
「本当にびっくりしたんだ。トーコが大切にしていたものが出てくるとは思わなくて」
話しながら、直人はジーンズのポケットに右手を入れた。
「覚えていてくれてありがとう。でも、どうして、紛れ込んだのかしら? ちゃんと持っていた気がするのに」
「さあ。でも、車を手放す前に気づいてよかったよ」
直人はポケットから右手を出し、コクトウに差し出した。
「ホントね。どうもありがとう。あなたはいつでも優しいわ」
コクトウの声には最大限の優しさが含まれているような気がした。
「そんなことないって」
照れたように反論して、直人は俯いた。
「いいえ。あなたはいい男だわ」
コクトウはきっぱりとした口調で言い切った。
「買いかぶりだよ」
「私がそう思うんだからいいじゃない」
「彼氏はまだ作らないの? こんないい女が」
溜息混じりという直人の言葉から、きっとコクトウは悪戯をするような目をしているんだろうなということが想像できた。
「いい男過ぎる男とつき合っちゃったから、妥協ができないワガママ娘になったの」
直人は額に手を当てて項垂れた。
「『娘』じゃないだろ」
「いや、私はまだ『娘』よ」
ああ言えばこう言うといった様子の口撃を仕掛けるコクトウに分があった。
「でも、幸せそうでよかった」
「私、職なし、金なし、男なしよ」
笑いながらコクトウが答える。
「顔に書いてある。表情も丸い」
「太った?」

少し動揺しているコクトウのおでこを直人はぴしゃりと叩いた。太ったというより、人種がかわったんだと昨日の写真を思い出して、ゴウは心の中でツッコミを入れた。
「前は余裕なかった?」
少しコクトウの声のトーンが落ち着いた。
「正直言うと、見ていて辛かった」
「見なきゃいいのに、別れていたんだし」
どうにもこうにも勝てそうもないコクトウに直人は溜息をついた。
「何もできないことが辛かった」
「何も求めてなかったわ。何より、そういう関係でもなかったでしょ」
「そういうことでなくて」
言葉を止めた直人の表情からは何も読み取れなかった。
「私、とても感謝しているの。一人では生きていけないということの、本当の意味を教えてくれたのはあなただわ。そういった意味で、あなたは私の大切な人なの」
真面目なコクトウの声が、一度、途切れた。
「だから、幸せでいて」
明るい声だった。その言葉に、直人は微笑んだ。
「いよいよ結婚でしょ」
「まいったな。なんでわかった?」
「ナオのことは、わかるのよ」
直人は吹きだした。同じようにコクトウも笑い出した。
「相手の人は美人って聞いているけど」
笑って乱れた息を整えながら、コクトウが聞いた。
「幼なじみだよ」
「えっ? まさか、昔は、二股だったって落ちはない?」
「まさかっ。あの頃はお互いに何でもない存在だったんだよ。今は必要だけど」
「はいはい。ごちそうさま。胃もたれしちゃうわ」
いつもの調子で毒を吐くコクトウに、直人は苦笑いした。
「でも、元気そうでよかった」
「私は、いつも元気よ」
「そうだな。トーコが元気じゃないのは困るな」
「どういう意味よ」
「調子が狂う」
「はぁ?」
語尾を上げて聞き返すコクトウに笑いながら直人は続けた。
「いつも、元気で大胆で、向こう見ずで、笑わせてくれる」
一息置いて、直人は真面目な顔に戻した。
「でも、誰よりも優しくて、傷つきやすいのに、不器用で、自分の中にそれを隠そうとするんだ」
はっ、とコクトウは鼻で笑った。
「買いかぶり」
コクトウの声は少し震えていた。直人の表情は、いつもミューやゴウが見るあのおじさんの表情だった。
「ナオも、私も、幸せになろうね」
そのコクトウの声は、いつものコクトウのものだった。


「おじさん、誰かと結婚しちゃうんだ」
盗み聞きに全精力を注いでいたゴウが小さく溜息をついた。別の世界だとはいえ、どこか寂しい気がした。
「なに言ってるの?」
小さいけれど、確実に批難の色がこもっていた。
「おばさんとパパが結婚するってことじゃない」
「ええっ」
「全く、ゴウのシナプスはどうなっているのかしら」
ミューは言葉を失ったゴウの裾を引っ張った。
「コクトウが席を立つわ」
その言葉を合図に、二人は人ごみに紛れるようにして、店を出た。駅前の時計を見ると、まだ、十七時だった。このまま戻ったら、コクトウに「早い!」と言われ、下手したら、ペナルティを徴収されかねない。
「まだ、早いから、やっぱり河川敷に行こうか?」
ミューは、ゴウに軽く微笑みかけると、ゆっくりと歩き始めた。
幾分、勢いの弱まった日差しを受けながら向かう。二人の影は少しずつ伸びていきながらも、いつまでもついてきていた。

河川敷に着くと、天の恵みとも思える風が二人の髪を揺らした。
「すずしい」
うっとりとしたように、ゴウは呟いた。
「今日も、暑かったもんね」
ミューは着実に色が黒くなりつつある自分の腕をまじまじと見つめた。
「このままじゃ、僕たちも『コクトウ』になりかねないね」
溜息をつきながら、ゴウは照り返すアスファルトと川面を交互に見た。目を細めてもまだ眩しい川面の輝きから視線をそらして、緑を見たゴウは奇跡を見た。
「ミュー、ハヤマがいる」
お化けを見たというようにうろたえ、一点を指差しながら見つめるゴウの視線の先をミューも追った。確かに、とてもとても係わり合いたくないが、会いたかった人物がそこにはいた。ハヤマは、サッカーの練習を終えたところのようだった。少年の集団から離れ、自転車に向かっていた。
「ハヤマー」
正気に返ったゴウが、ハヤマに詰め寄った。ハヤマは見下すように、ゴウを見て笑った。
「何だよ、ちび」
こいつは面倒臭いだけじゃなく性格も悪いと、ゴウは確信した。
「今日こそ、ミューのピアスを返してもらう」
今日はミューもいるし、とゴウが振り返った先にいるはずのミューはいなかった。

ゴウは辺りを見回して、ミューを探した。ミューはゴウといた場所から一歩も動いていなかった。ミューの前に、ハヤマと同じようなユニフォームを着た少年の背中が目に入った。
「ミュー」
できる限りの大声を出してゴウはミューを呼んだが、ミューは少年の肩越しに手を振るだけだった。
本当に、本当に、このハヤマと関わりたくないのだと、ゴウにはわかっていた。できれば自分だって関わりたくないと思うゴウは、小さなその手を握り締め、拳を作っていた。ゴウに背中を向けていた少年が振り返り、気づいたように、手を大きく振った。よく見れば、昨日、将来のイケメン認定を受けたハチだった。ハチとミューがゴウに向かって歩き始めたのをハヤマは黙って見ていた。
「ハチが五十円を返すってきかなくて」
ミューはゴウの前に来ると、そう説明した。
「コクトウのおごりは怖そうだから」
ハチはそう言って笑い出した。ああ、それは納得と、ゴウも同意した。
「瑛人、こいつら誰だよ?」
それまで口を閉ざしていたハヤマが口を開いた。
「ゴウとミュー」
ハチは右手を差し出しながら、ハヤマに紹介した。
「そういうことじゃなくて」
「昨日、俺も会ったばかりだからな。なんて説明しようか」
ハチは困った様子で、ゴウとミューに視線を送った。さぁ、というようにミューは首をすくめて見せた。
「なのに、なんでそんなに仲良さげなんだよ?」
腑に落ちないというように、なおも説明を求めるハヤマに、ゴウはそういえば不思議だなと思った。
ミューは決して、人間嫌いではないけれど、人から距離を置かれることが多く、仲がよさそうだと思える人はゴウの記憶の中にはいなかった。
「さぁ?」
なんとも間の抜けた返事をするハチに、ハヤマは舌打ちした。
「ねぇ、ハチはハヤマとどういう関係? 知り合いなら扱い方を聞いておけばよかった」
ゴウの頭に衝撃が走った。見ると、ハヤマが不機嫌そうな顔で、右手を振っていた。ゴウだけに聞こえるような声で、年上に生意気だと言ったのをゴウは聞き逃さなかった。ゴウは視線だけで、反抗の姿勢を見せた。
「ん? チームメイトだよ」
そんな二人の不穏な空気を無視するように、ハチは答えた。
「人は自分にないものを求めて引き合うのかもしれない」
「僕ができるってことか? なかなかいいことも言うな」
ハヤマはゴウの真面目な呟きに口元を緩めた。
「なにを勘違いしてるの?」
なおも真顔のゴウに、本日、二回目の衝撃が走った。
ハヤマと関わりあいたくないせいか、会話にも混ざろうとしなかったミューが、プッと吹きだし、笑い始めた。
「どうしたの?」
隣にいたハチが聞くと、ミューは落ち着けというように深呼吸した。
「なんか、兄弟みたい」
「それは僕に対して失礼だよ」
真剣に反論するゴウを見て、ミューは笑い転げた。ミューは、もう無理、とようやく口に出すと、ハチの肩をポンポンと叩いた。
「あとはよろしく」

ミューは水道のほうへ歩いていってしまった。
「あーあ、ハヤマがあまりにもバカなこと言うから、呆れちゃったよ。ミューはバカが嫌いなんだ」
ゴウは、本日、三度目の衝撃を受ける前に、その身を軽くかわした。
「学習能力が足りない」
得意げなゴウに、ハヤマは鋭い視線を送ったあと、ミューのほうへ顔を向けた。
「ゴウはリュウと知り合いなの?」
「『リュウ』って誰?」
ハチは静かに、ハヤマを指差した。
「こいつミューのメモリ、ピアスを盗んだ悪い奴だよ」
ぼんやりと遠くを見ていたハヤマが、ギョッとして、顔をゴウのほうに向けた。
「リュウ、ダメだよ、そんなことしちゃ」
心配そうに、そして諭すようにハチが言う横で、ゴウは、そうそう、と頷いた。
「盗んでないっ! 知らないおじさんにもらったんだ」
「ああ、そうなの?」
ハチは、のんびりという姿勢を崩さなかった。おそらく、昔のアメ車よりもエネルギー効率の悪いハヤマには、省エネモードが最適と判断しているのだろう。ハヤマは噛み付くように反論したそのままの勢いでハチに詰め寄った。
「瑛人はこんな奴の味方なのか」
「味方って。そんなんじゃないけど、落として困っている持ち主が目の前にいるなら、返してあげれば?」
半ば呆れたように、ハチはハヤマを見つめる。
「味方って、いくつの子どもだよ」
ゴウは小さく吐き捨てるように言った。言うところの「味方」を失ったハヤマは、やけになったのか、それなら本人が取りに来させろ、と言い捨て、去っていった。
「ハチ、ミューに怒られるかも」
砂埃を残して小さくなっていくハヤマを見ながら、ゴウは呟いた。
「そうだね」
それ以上の言葉は見つからないというように、ハチは同じくハヤマと思しき点を見つめながら静かに答えた。
「ねえ、ハチ、一緒に帰ろう。コクトウに五十円返さなきゃ」
「忘れるところだった」
バッグに手を入れたハチの手をゴウは掴んだ。
「これは直接返したほうがいいよ」
強い口調に、ハチは軽く溜息をついたあと、小さく笑った。
「違う理由だろ」
待ち構えている女帝たちに立ち向かう勇気をまだ持ち合わせていないゴウは、ハチの真似をして天命を待った。
「さあ?」

ゴウとミューがハチを連れて、コクトウの部屋に戻ると、サンダーの声が聞こえたような気がした。
コクトウは机に左手をつき、体を乗り出すようにして、パソコンを覗き込んでいた。
「されど愛 欠乏症より ずっとまし」
パソコンの中からサンダーの声が返ってきた。
「あんたのは 愛は愛でも 自己愛よ」
イラッとした様子のコクトウが返す。
「怠惰ゆえ 女忘れて 八つ当たり」
パソコンから聞こえた音で、部屋中に戦慄が走った。
「ユアブーム 現実見ずに 勘違い」
ムキーッ!と、何かの叫び声がパソコンの中から聞こえた
「今回は しばらく連絡 くれるなよ」
「上等だ 双曲線に なってやる」
「そのセリフ 後生大事に 持っておく」
音信は途絶えた。コクトウはパソコンの前で、肩を上下にするようにして、息を整えていた。
「帰ったよ 今日もハチが 一緒だよ」
恐る恐るゴウはコクトウに話しかけた。コクトウは、お帰りと言って、寂しそうに微笑んだ。
「仲直り すればいいのに 類友ね」
「黙ってな 丸められない こともある」
そのままコクトウは台所に向かった。呆然とした様子で、見守っていたハチが口を開いた。
「いつの間に みんな詠んでる 川柳を」
ハチのその言葉に、いつの間にかうつっていた、と口々に言って、台所に向かった。
台所ではコクトウが野菜を準備しているところだった。
「コクトウ、ハチが五十円払いにきたよ」
ゴウが伝えると、コクトウはいいのに、と苦笑いした。
「今日も食べていく? カレーにするから人数増えても問題ないわ」
ハチは曖昧に笑っていた。
「お家の人が心配するかな?」
たまねぎをシンクに落としながら、コクトウは聞いた。
「家には誰もいない」
そういえばそうだ、と思っていたゴウの考えとは裏腹に、ハチは珍しく強い口調で言い切った。コクトウは、一瞬だけ、動かしていた手を止めたが、そう、と言って、また手を動かした。
「じゃあ、食べていけば?」
何事もなかったかのように、コクトウはのんびりとした口調で言った。ハチが頷いたのを見て、コクトウはハチに小麦粉を手渡した。
「ミューはたまねぎ、ハチはナン」
「ナンまで作るの?」
コクトウの言葉に驚くゴウに、さらに驚きの一言が続いた。
「ゴウはスパイスをひけ」
「えっ? そこから?」
命令は絶対で、背くことは許されないのを知っている三人は、それぞれの役目につく。ゴウとハチはボールに向かいながら、床に座った。ミューは、コクトウと並んでシンクの前で大量に用意された玉葱をむき始めた。
「おばあちゃんの家に行ったら、おじさんいなかった」
突然、思い出したように、ミューがポツリと話した。
「そうなんだ」
 コクトウは変わらず、手元の玉葱と格闘していた。
「で、パパはおばさんと結婚するのね」
コクトウの様子を窺うように見ながら、ミューは淡々とした口調で続けた。その言葉に、ギョッとさせられたのは、ゴウと、事情を知らないハチだった。
「未来は決まってないからね」
他人事のようにコクトウはのんびりと相槌を打った。
「こっちに来てから、悩んでるの」
「何を?」
コクトウは新しい玉葱に手を伸ばしながら聞いた。
「コクトウはいつも楽しそうで、もしかしたら、ママも望んでたのは今の生活じゃないんじゃないかって」
辺りに刺激臭が漂い始め、最前線で戦うミューとコクトウは口々に、痛い、と小さな叫び声を上げはじめた。
「そんなこと言ったの? あんたのママは」
「言ってないけど」
「じゃあ、ミューの杞憂だわ」
「気を使ってるんだと思う」
そう珍しく気弱なミューに調子を崩されたのか、コクトウは少し考えるように黙り込んだ。
「いや、私に限ってそれはないだろ」
ゴウも、そのコクトウの意見には大いに賛成だった。
「ねえ、人の気持ちって玉葱みたいなものじゃない?」
玉葱を持ち上げながら、コクトウは、私もやっとわかったと呟いていた。
「痛いってこと?」
ゴウが聞くと、コクトウは、そうそう、と笑った。
「これが『実』だって信じなきゃ、皮をむき続けて『実』がなくなる。しかも、皮をむく人にもむいただけの痛みがあるの」
イテテ、とミューは言いながら、コクトウを見た。
「じゃあ、何もしないほうがいいってこと?」
コクトウがシンクの下から包丁を取り出した。
「昔、『人生なんてナンセンス』って言った奴がいたわ」
「それは何もしないほうがいいって答え?」
「そいつは、『存在していることを突き詰めると無意味にたどり着く。それなら、私はいつまでも浸っていたくなる昨日を作るために、手を伸ばさずにはいられない明日を見つめ続けながら、心の声に従って今を楽しんでやる。不真面目上等。ダメな大人大歓迎。それが私が信じる私が生きる意義』って言い切りやがった」
「なに? その無駄に反抗期全開な台詞」
「さあ。それがわかるのは、きっともっとあとのこと」
「なぞだらけね」
「そうね。何もせずに、遠くから見ているだけなら、玉葱が美味しいってことにも一生気づけないかもね。もっとも玉葱嫌いの人には出会わないでいいことほど幸せなことはないでしょうけど」
「だから?」
「だから、ミューが実だと信じられるところを食べればいい。じゃない。信じられるところを信じて、好きなようにしたらいい」
「でも、わたしが何かしたことによって、誰かが傷ついたりしない?」
真面目な声で質問するミューに、コクトウはアハハと笑った。
「大丈夫。私たちはみんな、自分が信じたいものしか『真実』にできない自己中心的な生き物なのよ。何に傷つくかを選ぶのも自分自身。身の上に起こってしまうことは受け入れるようにできているのよ。だからミューの行動で傷つく人がいたとしても、それはミューが傷つけたんじゃなくて、その人が自分を罰したかっただけだから心配御無用」
ゴウはコクトウに怒鳴られる恐怖も忘れて、スパイスを引く手を止めて、話を聞いていた。ゴウが横を見ると、ハチの手も止まっていた。
「自由にしていいの?」
「それ以外に何ができるの?」
「わからない」
ミューが答えると、コクトウはニヤリと笑った。
「ほら。自分のことすらわからないのに、ほかの何を理解して『傷つけた』って判断するの?」
「それは」
「突きつめると自分の中の信じたいことにしかならないでしょ?」
ミューは力なく頷いた。
「でもね、何を信じるかを選ぶのは自由なのよ。だから、自分で居心地がよくなることを信じたらいいのよ」
コクトウは、どこまでもコクトウで、どこまでも女帝だとゴウは思った。
「わがままになれってこと?」
ゴウは思わず聞いてしまった。
「自分が心地よくなるには、自分以外のものにも心地よく、優しくしたほうが効率的だって気づいた祖先の記憶が私たちの中にも知らないうちに組み込まれているの。優しさは、思いをはせることが、想像が種になって、思い込みや空想で育つのよ。そうなると優しくするってことは、わがままね」
自分の言葉にコクトウは吹きだした。
「わがままかよ」
ゴウが不服そうに呟いた。
「そうそう、だからピントがずれると迷惑この上ないでしょ」
いたずらっぽく笑うコクトウの視線に、ゴウはある人物の顔を思い浮かべていた。
「ああ、確かに面倒臭いのがいる」
それは優しさからきた面倒臭さなのかどうかは別にしても、と心の中でゴウは付け加えた。
「それって、幸せなのかな? 不幸なのかな?」
ハチがわからないというように首を捻った。
「少なくとも、アイツは幸せな奴だよ」
ゴウの呟きが誰を思って生まれたのか察しがついたミューとコクトウは吹きだした。
「まあ、幸せなんて自分次第だからね。どこで何をどう感じるなんて、自分以外にどうしようもないわよ。でも、わかることは他力本願な限りは幸せにはなれないってことだけね」
力強いコクトウの言葉は、ここにはいない誰かに宛てられたもののようにゴウは感じていた。コクトウは、終わった、といいながら、大量の玉葱のみじん切りをボールに移して、手を洗った。
「なんでもいいから、あんたたちも幸せでいなさいよ。変な悩み捏造してくたばってる暇があるなら、笑っていられる妄想でもしてなさいよ」
コクトウは座っていたゴウとハチの頭をグシャグシャと撫でた。玉葱臭が移るとゴウは文句を言って、コクトウを見上げた。
「なんでもいいなら、僕は何があったか確かめたいな」
ニヤッと笑うコクトウに、ゴウは呟いた。
「確かめればいいじゃない」
ハチはグシャグシャに乱される髪形について何も言わずに、穏やかに笑っていた。
「なんでもいいんだ」
「そうよ、ハチがハチなら何でもいいの」
玉葱の攻撃で涙目になりながらも、笑って三人の様子を見ていたミューが思い出したように聞いた。
「コクトウは幸せ?」
「さっきから面白いことを聞く子ね。私はここにいて、ミューという存在があることを感じている存在で、何かに喜びを感じている存在よ。それ以上でも、それ以下でもないわ」
「ありがとう」
ミューはタオルで目を拭った。
「手をよく洗って、目も洗っちゃえば?」
 蛇口から水が勢いよく飛び出し、シンクにぶつかった。音と一緒に、小さな粒がいくつも生まれていた。
「でも、シツギョウシャだよ」
ボソッと呟いたゴウの声も、しっかりとコクトウの鼓膜を揺らしたようだった。
「地平天成になったときに日の目を見るよう今是昨非し終えて、困知勉行しながら蟄居屏息の日々を送ってるの」
「それって、夢見がちなニートってこと?」
 恐れ知らずのハチの言葉は聞こえたのか、聞こえなかったのか、コクトウの口角は上がりはじめた。
「イテテ」
「だから、今、笑っていられるの」
 コクトウはどこまでも伸びそうなゴウの柔らかい頬をつまみながら、ニンマリと笑って見せた。
「どういうこと?」
「さてねぇ」
 ハチの質問に、コクトウは視線だけをハチに向けた。
「大人になったらわかるかもしれないし、わからないかもしれない」
「なぞなぞみたいだ」
文句を言うゴウの頬からコクトウは手を離した。
「自分の人生くらい自分で責任持ちたまえ」
ゴウの目を覗き込むと、コクトウはゴウの額に軽くデコピンをくらわせた。
「さあ、ひき肉炒め始めるわよ」
気合を入れて、ひき肉と玉葱のみじん切りに視線を移したコクトウの言葉に、ゴウは慌てて、止まっていた手を動かし始めた。
その日食べた超力作ともいえるキーマカレーは、ゴウ史上最高の美味しさで、ゴウはハチ作のナンとともに三皿も平らげた。
「キーマカレーだったんだよね? たまに玉葱がでかすぎたけど」
 控えめに疑問を述べたハチに、ゴウは、ヒッと小さく悲鳴を上げた。女帝が機嫌を損ねないないように、視線でハチに訴えた。ハチは、その身の危険を察知したのか、ゴウのメッセージを受け取ったのか、それ以上の追求はしなかった。
ミューのママと同じように、コクトウもまた、とてもアーチスティックな料理を提供してくれるのだった。いろいろ細かいこともするくせに、芸術というものも好きなくせに、料理の見た目は、イマイチだった。味は、その賞賛しかねる見た目と違い美味しいというミラクルを起こすので、誰も深くは追求しないというのが、長谷川家の掟だった。文句を言う前に、ミューやおじさんが見た目を整える、あるいは整えたものをオバサンに提供するという連携プレーを見せていた。
 けれど、そんな掟は外では通用しない。さらに、ここではオバサンと同じ存在のはずのコクトウは一人暮らし。きっと、これが常識なのだ。
「ハチはいいお嫁さんになるよ」
話題を変えることを第一の目標にゴウは前向きな感想を述べた。それでも、お世辞ではなく、あまりの美味しさ故に、きっと忘れることができなくなるだろう味を堪能した。
「レシピ教えて」
ハチの言葉に、コクトウは目をまん丸にしたように見えた。
「初めて作った上に、適当だからわからない」
ゴウは動かし続けていたスプーンを持つ手を一時停止した。コクトウは、それでも、ハチの期待に応えようと、玉葱の数を数え始めた。けれど、それも無駄に終わったようで、部屋中にカレー臭が充満しているわ、と違う話題を提供し始めた。
「話を逸らさないでよ」
 数少ない攻撃のチャンスをゴウは見逃さなかった。
「そんなこと聞くなら、ゴウ、スパイスは何をどのくらい使った? 覚えてる?」
一番の肝となるものを担っていたのはゴウだった。ゴウもまた、深く考えず適当に調合していたのだった。猛攻を夢見て、返り討ちに遭ったゴウは、目を犬掻きさせながら、コクトウと同じ言葉を返すしかなかった。

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