よくある河川敷で、でも確かにどことも違う景色を確認するように辺りを見回しながら、三人は足を進める。夏のジリジリと肌を焦がすことに熱心な太陽が三人の肌にも降り注ぐ。汗をかいているはずなのに、太陽のいい仕事のおかげで、誰の肌にも水分は残っていない。
「ねえ、ハチの家の人が心配してるんじゃない?」
ゴウは塩の結晶でコーティングされているような自分の腕を見ながら、隣を歩く、美人の少年に問いかけた。
「しないよ」
ハチの即答に素朴な疑問をしただけのつもりだったゴウは大いに驚いた。思わず、上流を目指して動かし続けていた足を止めてしまうところだった。
「天災孤独?」
うろたえながら呟いたゴウに、ハチは吹きだした。
「家族はいるよ」
「じゃあ、どうして?」
首を傾げて質問するゴウに、ハチは微笑んだ。
「みんな忙しいみたい」
ハチの微笑みは、笑顔なのに泣いているように見え、ゴウはギョッとした。これ以上変なものに遭遇しないようにと、辺りに睨みをきかせるようにして進んでいたミューが、二人の雰囲気の変化に気づいたのか、二人を見て、まだ頭一つ分小さいゴウと自分より少し背の高いハチの頭をグシャグシャとかき混ぜた。
「ハチはハチよ。ハチがしたいようにすればいい」
ミューはニヤリと笑ってみせた。
「コクトウだ」
ゴウは呟いて、ハッとした。
「コクトウはどうしたんだろう?」
「たぶん大丈夫」
緊迫した声を出したゴウとは対照的に、ハチとミューはのんびりとした声をぴったり合わせて答えた。
「コクトウは絶対にここにいる。進んでいけば、そのうち会える」
「なにか根拠があるの?」
「ない」
「あるとすれば、コクトウだから」
ミューの即答を受け継いだハチが、その見解を述べた。
「ああ、そうかも」
ゴウは納得と言って口を閉ざした。
よくよく考えてみれば、コクトウについてもミューの母親だけど母親ではない存在としかゴウは知らない。
ハチについてはミューが河川敷で拾ってきたという情報のみ。
コクトウは未来から来たというゴウとミューのそれ以上のことを知らない。
ハチのことは捨て犬と同じ扱いかもしれない。
ハチにとってはコクトウだけでなく、ミューもゴウも、昨日初めて会った人でしかないだろう。ただ、ウマが合ったというような感じで、それ以上の情報はなかった。でも、それ以上の情報は必要なのか、と聞かれれば、それは必要ではない気がする。それ以上の情報を聞いたところでどうするのだろう、それは今のゴウには謎だった。
コクトウやハチが、何を抱えて、何に思いをはせて、どんな経験をしていても、やっぱりゴウにとって、コクトウはコクトウで、ハチはハチなのだと思った。話したくないことがあるなら、話したくないものがあるのがハチだった。よくはわからなくても、ハチに親しみを感じているゴウの今の気持ちには変わらないということに思い至った。
「ねぇ、あそこ通らないといけないのかな?」
ミューは、野原のように背の低い草ばかりだったエリアをしばらく歩いていた三人の遠くはない前方に、木々が覆い茂る森のようなものを確認した。
「方角からすると、避けて通れない感じだね」
ゴウは辺りを見回しながら答えた。
「ちょっと、ためらうな」
満場一致。ミューもゴウも静かに頷いた。三人の足は僅かにその速度を緩めたのだが、心の準備が整う前に、そのためらう森の入り口に辿り着いてしまった。
「それでも、行くわよ」
真っ先に切り込んでいく血気盛んな隊長は、ミューだった。
「なに笑ってるの?」
ハチがうつむいて笑いを噛み殺してるのを、ハチより頭一つ分以上背が低いゴウは見てしまった。ミューは前を真っ直ぐ見据えて、足を踏み出していた。
「ばれないと思ったのに」
「さすがに、人の頭の上で笑いを隠すのは無理だよ。どうしたの?」
「いや、きっと、ミューは今と同じように、俺に近づいてきたのかなって想像したら」
「それは、とても勇み足だよねぇ」
ゴウも笑いを噛み殺す。
「なにしてるの? 二人とも」
「今、行きます!」
ウワサの隊長に敬礼をして、二人は駆け寄った。ためらう境界線はどこだったのか、いつの間にか、その中に入っていた。
「この森、何かを思い出させる」
ハチの言葉に、前を歩いていたゴウとミューは振り返って、静かに頷いた。
「何かは思い出せないけど」
続けたハチの言葉に、やはり二人も同意というように頷いた。
「あっ」
「なに?」
突然の記憶再生に声を上げてしまったゴウは、ミューの問いかけには応じられなかった。
思い出されたのは、ミューもハチも必要としていないどころか、口に出したら、ミューに張り倒されそうな内容だった。
「なんでもない」
「あっそ」
紛らわしい声を出すな、というような強い牽制の視線がミューから送り出された。ゴウの頭の中には、まだ小学生だった頃のミューに、不思議なものを見つけたと連れ出され続けた中で出会った森が思い浮かんでいた。
隠れ家を見つけたというので、森に入ってみたのだが、どこまで進んでも見つからない。いつの間にか、夕方という時間になってしまった。それでも、ミューはあきらめられなかったみたいで、探し続けていた。ミューと一緒にいると、ゴウの希望とは関係なく、走り出さなければいけない事態に陥ってしまう。ミューは、その頃とは全く違うけれど、何も変わっていなかった。
足元で幾重にも重なった葉が、サクッという音を立てて割れた。暑さを思い出させるような蝉の大合唱や、ウケケケケという異様な鳥の鳴き声が響き渡る森の中では無に等しい音だったのだが、三人にはとても大きな音に感じた。
一歩が十歩になって、十歩が百歩になるころには、厳戒は解除されていた。危険ではないという観測が三人に余裕をもたらした。けれど、何かが引っかかる。それでも少なくなる警戒心のかわりに生まれた余裕によって、危険以外のものに気を配ることができるようになった。
深呼吸をしたゴウが、木々の間からほのかに漂う甘い香りを感じ取っていた頃、ハチは葉の隙間から零れ落ちる僅かな光の粒を感じ、ミューは木々の合間を移動する鳥の羽音に心を奪われていた。
「入る前は正直言って怖かったけど、意外と素敵な場所なのかもね」
ミューは独り言のつもりだったようだが、それを耳にしたハチはクスッと笑いを漏らした。ミューの言葉に頷いて、ゴウは自分たちの進んできた道を振り返った。
「道には花が咲いてるしね」
ゴウが振り返った体を元に戻し、またその足を進めようとしたとき、ハチの異変に気づいた。立ち止まったまま、下唇を噛んでいるハチに当たり前のように聞いた。
「どうしたの?」
ザクッという、足元の葉が割れる音が聞こえた。
「なんだか、すごく嫌な気配がする」
ハチは全身の気を張り巡らせていた。
「気のせいだよ」
ゴウは、ハチに向かってその足を一歩進めたところで、言葉を撤回せざるをえなくなってしまった。
「あ、あれ」
ミューが指差す方向にいたのは、動物園でしか実物を見たことがない熊。その熊がまさに小道に進み出ようとしている映像があった。ぬいぐるみや何かのキャラクターのような可愛らしさは感じられない。迫力満点の熊が記憶の中ではなく、いた。
「『ハイキング中の小中学生、熊に襲われ重傷』って、ニュースは痛々しすぎるよ」
ゴウはジリジリとその足を静かに後退させた。
「その前に、『荒川のフラちゃん名誉区民に』ってニュースが流れるよ」
ハチの否定は、何の慰めにもならない。
「何がウケるかを考えるより、今どうするかを考えないと、『森の中で何が? 白骨化した三人の子どもたち』って見出しが現実に出ちゃうわよ」
その前にそんなニュースを喜ぶ存在がここにいるかどうかが疑問である。
「今、どうするかなんて決まってるよ」
ミューとハチは大きく頷いた。
「気づかれる前に逃げるべし」
そろり、そろりと静かに足を動かし始めたミューが何かを思いついたように、ゴウの腕をつついた。
「でも、ここ、花が動いたり話したりするファンタジックな世界だから、熊も優しく話しかけてくれるかもよ」
「そうかも」
そう言いながらも、ゴウの足もミューの足も止まることがない。誰か代表して話しかけてくれないかという期待に満ち溢れた目で、三人はお互いの顔を見合った。
「ここは先ほどミラクルを起こしたゴウが」
「ゴウなら大丈夫」
「その態度で言われても説得力ないし」
ゴウは深い溜息をついた。
「静かに、気づかれる」
空返事ばかりを繰り返していたハチが強い口調で注意した。
「大丈夫だよ。まだ少し距離があるし」
そんなゴウの希望も、ハチの注意もむなしく、熊が三人の存在に気づいた。時が固まってしまったかのように感じたハチだったが、意志のこもった目を二人に向けた。
「脅かしてないから大丈夫だよ。でも、逃げろっ!」
ハチの視線を受けたミュー発した鋭い命令が合図となって、三人は走り出した。
「コクトウの教えは真実だよ。もっと真面目に鍛えておけばよかった」
ハアハアと息の切れ始めたゴウが呟きを聞いたハチは苦笑いしてしまった。チラリと後ろを振り返ったハチの目に飛び込んだものは、悪夢そのものの光景だった。ものすごい勢いで追いかけてくる熊。CGであってほしいと願ってみたが、それは敵わぬ夢であることを、確かな匂いが伝えてきた。
「ゴウっ!」
花咲く小道にまで張り出した木の根に足を引っ張られ、ゴウは倒れてしまった。すぐ横を走っていたハチがゴウの手を引き寄せる。
「イヤーッ!」
一瞬遅れて、気がついたミューは、その絶望的な光景に悲鳴を上げた。熊は、もう数メートルという距離にまで迫っていた。ミューの悲痛な叫びを無視したのか、むしろ従ったのか、熊はゴウとハチをかわし、ミューに向かって走り続けた。
「ウソッ!」
ターゲットが他人ではなく自分となったことで、ミューの口から出されるものが悲痛な叫びから、呆然とした呟きに変わった。信じられないとはいえ、足を止めるわけにはいかない。全力疾走するミューを嘲笑うかのように、熊がミューを追い詰めた。その後ろから、ゴウとハチが心配そうに見守るが、熊はやはりミューにしか興味がないようだった。
「お、オス?」
ハチの力を借りて立ち上がったゴウは、ハチの耳元で呟いたあと、あまりのことに忘れかけたお礼を伝えた。
「メスの嫉妬かも」
どうしようにも、対処法が思いつかない二人は、なぜか、自分たちを追い詰めるものの正体について考え始めた。対して、ミューは必死にその場を離れることに考えを巡らせた。熊と対峙したときの対処法を試みようと考えたが、それには時間も距離も足りなかった。息を飲み、目を瞠ることしかできなかったミューの頭には、絶体絶命という言葉が浮かんでいた。クワッと口を開き、鋭い爪を持つ両腕を大きく上げた熊に、後ろにいた二人はたまらず目を瞑った。
「お嬢さん、お逃げなさい」
ひどく紳士的な言葉が、遠くでカアカアという鳥の声が響くだけの静かな空間に響いた。
「なにか言った?」
ゴウはハチに聞いた。ハチは首を横に振り、絶望的な光景を指差した。
「はあ?」
ぽかんと口を開けたまま、ミューは力の抜けた声を出した。目をパチパチと瞬くミューの様子がゴウとハチにも伝わってきた。
「おや聞こえなかったのかな? お嬢さん、お逃げなさい」
あくまでも紳士的な口調の熊が言うことには、とにかく「逃げろ」ということだった。この絶望的な光景でなんというのん気なアドバイスだろうとハチは耳を疑った。その絶望的な光景は、紳士的に話す熊が作り出しているものなのに。
「優しいのね」
目の奥に警戒心を隠して、ミューは熊を見た。
「よいことをすると気持ちがいい」
熊はうっとりとその目を閉じた。
「そうなの? とりあえず、ありがとう」
少なくとも僕たちは気持ちよくない、とゴウは心の中で反発した。どちらにしても、森を抜けるには先に進むしか選択肢はない。もしかすると、この熊は、何か身に迫る危険を忠告しに来たのかもしれない。もし、そうであるとすれば、親切な熊のアドバイス通り、逃げる必要がありそうだ。呆然としたままのゴウとハチを見ながら、ミューは頷いた。
「わかった」
忠告通りに、三人は何かの危険から逃げ出すように、目指す方向へと足を踏み出した。振り返ると、熊は、ミューにアドバイスした場所から動くことなく、三人を見ていた。
「あの熊なんなんだろう?」
視線を後方に飛ばしたゴウは、次第に小さくなる熊との距離を確認しながら、声をひそめて聞いた。
「親切? わからないわね」
お手上げというようにいうミューとは対照的に、ハチは手で口を塞ぐようにして視線を右上に泳がせた。
「もしかして」
「なに?」
何かに気づいた様子のハチにゴウは、その続きを求めた。
「このスチエーションって何かを思い出さないか? 森の中、花咲く道、熊」
「お嬢さんお逃げなさい?」
ゴウは、間の抜けた声で続きを答えた。
「あっ」
ミューが歩いてきた方向を指差した。先ほどよりも、凶悪な顔をした熊が、こちらに向かって走り出したのが見えた。
「ミュー、落し物しなかった?」
全力疾走しながらも、話すことができるのがゴウは自分でも不思議だった。
「落とすようなものなんて、これしかないわ」
懐中時計を取り出して、見せてくれた。ミューのほうが進む速度が速い。それでも、今、危険なのはミューである可能性のほうが高いのだろう。
「絶望的」
ゴウの絶望にハチが光を差し込んだ。
「とりあえず、ミュー、歌って?」
「無理っ!」
「音痴でも大丈夫」
「そういうことじゃない! 原曲バージョンだったら?」
「悲劇?」
「だから、とりあえず、逃げるか木の上に避難しなきゃ」
ミューは周囲に逃げ場を探しながら走り続ける。あいにく、三人が登れて、熊が登れないという都合のよさそうな木は見つかる気配すらない。振り返ると、小さく見えた熊は原寸大に近づきつつあった。
「あそこっ」
ミューが指差す先には、キラキラと光を反射して輝く何かがあった。
「川?」
一瞬、希望を見出したゴウは、ある事実をハチに突きつけられた。
「熊は川で鮭を獲る生き物じゃないの?」
川面の中から、熊の右腕に弾かれ、空中でピチピチとした新鮮な身体を躍らせる自分の姿を想像してしまったのか、ハチは身震いをしていた。
「でも、熊だって、足がつかなきゃ、溺れるんじゃないの?」
半ば悲鳴のような高い声でミューは叫んだ。三人の中で最もスポーツから縁遠いゴウは、もう会話には加わることができない。もう、熊はほぼ実寸大だ。川まではせいぜい数メートル。飛び込むか。もしくは熊が襲い掛かる瞬間にその身をかわして、熊だけを川に落とすか。
ハチは決意を込めた目でミューを見た。
「飛び込もう」
ハチの顔を見上げたゴウは、苦しそうな表情のまま頷いた。ハチは、左手にゴウの手を、右手にミューの手をとって、川に向かって高く、そして、できるだけ遠くまで飛び上がった。
最後に一瞬振り返ったハチの目に、悔しそうに草を切り刻む熊の姿が映った。