いつも以上に着飾った冬のその街は、そうでなくとも赤や白や青や緑の光で多くの色を纏っていたのに、そこに黄金色が加わった。
足というものの動かし方がわからなくなってしまった。暖かな光に包まれていたのに、寒かった。
一瞬だけ足を止める人、写真を撮る人、君を囲むように視線を送る人、何もかもがスローモーションで動く映像のように鮮明に覚えているのに、その映像も音声もどこか遠かった。誰にも、どこにも届かない叫びは、誰のものなのかさえ、わからなかった。誰かが呼んだ救急車に乗ったまま、永遠に続くのかとも思える時間が過ぎていった。
早く。
早く。
気持ちだけは焦るのに、その気持ちの行き着く場所はどこにもない。
誰か知らない人が、どこか遠くで悲しんでいた。誰かの気持ちはわかるのに、自分自身の気持ちはなかった。何をしても、何を思ってみても、そこには何かフィルターのようなものがかかっていて、自分のものにはなりえなかった。
今、生きているのは、誰?
実体があるのは?
何もかもが不安定。
何が本当か、何が痛みか、喜びか。
当たり前のことが、もう、わからなかった。
この想いは、誰のもの?
「この仕事が終わったら、結婚しようか」
これから始まるプロジェクトが長期に渡るものだということは知っていた。それでも、この気持ちが変わらない自信があった。君も同じ気持ちであることを願っていた。窓の中に描かれた余所行き仕様の街並みに、君は目を向けた。君の目がここではないどこかを見ている僅かな時間で、微かだった不安はシェア率を急速に拡大し、心の中を独占してしまった。
「別に、クリスマスのムードに誘われたわけじゃない。前からずっと考えていた」
伝えた言葉はどこまで君に届いたのか。今となってはわからない。
「そういうことじゃないの」
君の目が真っ直ぐに向けられた。
「この仕事の任期は三年間。その長い間、約束で縛りたいと思えない」
君はそっと目を閉じた。
「別れたいってこと?」
思っていた以上に震えが声に伝わっていることを他人事のように感じていた。
「そうかもしれない」
残酷な君を、ただ見つめていた。言葉は、出なかった。君が好きで使っていたシャンプーの香りだけが、やけにリアルだった。
「大好きだけど、三年後はどうなっているかわからない。今の気持ちで約束をしても、三年後には同じ気持ちでなく、義務感だけかもしれない。念仏のように、あと何日って唱えながら、そこにいない人間の偶像を追って、一方的な気持ちを募らせていてほしくない。そんな虚しいものにしたくないし、好きな人のそんな姿を想像したくない。それなら、今一番好きな人に、もう一度出会って新たに好きになりたい。それはわがままかな」
いつも冷静な君の目に、涙が溢れていた。
君が伝えたのは、約束よりもずっと残酷な契約。君にまた好きになってもらいたいと願って、努力してしまう、君のことばかりを考えてしまう毎日がそこには見えた。それでも、受け入れてしまう。どうしても、君を繋ぎ止めておきたいと願ってしまう。約束よりも、君の提案を受け入れるよりも、嫌いになって離れられたら、どんなにも楽か。
それでも首を縦に振ってしまった。
「そうしよう」
やっとの思いで笑ってみせた。君が目に涙を溜めたまま、優しく微笑む。もう、この悪魔の契約から逃れられないだろう。君だけに全てを捧げてしまう。三年後も今と変わらぬ気持ちをお互いが持ち寄る幸せな未来を夢見て。
「約束はいらない」
約束の代わりに、足枷を。
偽りの現実の代わりに、本物の醒めることない悪夢を。
「カンパイ」
「なにに?」
「大抜擢された仕事の成功を願って」
君は、まだ涙が残るその目を細めて、幸せそうに微笑んだ。
完敗。
君には敵わない。君のためにしか存在する理由はなくなった。
「危ないっ!」
短い誰かの叫びとともに感じた強い衝撃。
それまでは、うんざりするくらいの色と光を見ていたはずなのに、ただ黄金色に輝く世界だけが広がった。
眩しくて目を開けていることができない。
そして何かに引きずられるように、暗闇へと落ちていった。
「消えた?」
おそらく報告者には落ち度すらもなかったのだろう。それでも、報告者のことを睨むことしかできなかった。
「ああ」
報告者は、そのまま俯いた。
「目の前で? ありえない」
報告者はただ頷いた。この報告者のせいではない。けれど、誰を睨んだらいいというのだろう。その場にいたのがほかの誰かだったら止められたかもしれない、その可能性だけが、報告者を睨み続ける理由になりえた。
「これを君に」
差し出されてはいけないものを渡された。これを渡されたということは、もう君が戻ってくることがないことを示している。
悪夢が終わるはずだった日に、新たな悪夢を見た。
その悪夢は覚めることがない。
どこまで追い求めれば、どこを探したら、君に再び会うことができるのか。
その答えはないままに、探し続ける。
君に会わないと、この悪夢は覚めることはない。
会いたい。
君に会いたい。
「君が持っていた可能性を奪った」
リビングから暗い廊下に光が漏れていた。
「本当にごめん。謝って済むことではないけれど、君が望むなら」
薄暗い廊下にも、静かなその声は響いた。
「何のこと?」
「後悔しているよ」
「それは今、こうなっていることに?」
その震えの幅が広がって空気を揺らした。
沈黙が生まれていた。
その沈黙は肯定なのか、そのほかの意志を持つものなのか。なにもわからない。ただ、わかることは、自分はここにいてはいけないということだけだった。微かな光から逃げるように暗闇へと戻っていた。