仮レ宙

17, Circumstances alter cases.
《全体の状況が個々の立場を変える》

頭の中に直接流れ込んでくるイメージの数々に、自分が何者なのかを忘れそうになる。一体、誰が見ていたものなのか。自分の見てきたものなのか。それは、わからなかった。

「俺はここにいる」
荒々しいハチの声がミューの鼓膜を揺らした。
「俺を見ろよ」
聞いたことがないハチ呻きに、ミューは目を開けた。
「よかった」
ミューは自分の胸に軽く拳を作った右手を置いた。一息つくと、ミューは辺りを見回した。
「ハチ?」
静かな暗い空間の中、ミューの声はミューを取り囲む何かを揺らした。なにか別の振動も伝わってくる。別の振動の発信元のほうを振り返ると、右手で拳を作り、肩を揺らしているハチの姿があった。

ミューはハチに駆け寄るつもりだったのが思わぬ抵抗を受け進まない。そういえば、息が続いていることが不思議だが、逃げ込んだ先は川の中のはずだった。ということは、走るよりも、むしろ、泳ぐほうが適している。両手を大きく動かし、足をバタ足のように動かして、ミューはハチに近づいた。
ハチはミューの存在に気づくと目を細めた。
「大丈夫?」
「ミューこそ」
ミュー自身もまた何かに怯えていたことを思い知らされた。弱い自分を隠すかのように、ミューは話題をそらそうとした。
「ゴウは?」
話題をそらすためだけに名を挙げてしまったことを、ミューは心の中で謝った。けれど、その問いかけは、発生した理由とは裏腹に重要なものだった。辺りを見回していたハチが、少し離れた自分たちの足元の高さの一点を指差した。
小さな手が見えた。
手以外の部分は、今、自分たちのいる空間よりさらに暗い部分に埋まっていた。その黒くも見える中には、サイズの異なるいくつもの泡が一定方向に流れ続けているのが見えた。
見たこともない光景に、ミューは息を飲み込んだ。
「シュール」
ハチは静かに頷いた。
「ああっ、そうじゃなくて、助けなきゃ」
慌てて二人は、泳ぐようにして、ゴウの元へ近づいた。てっきり、ゴウはヘドロにでも埋もれているのだと考えていた二人は、そうではない異質な存在に息を飲んだ。
「ゴウは埋もれているのに、なんで、わたしたちは足を着いても飲まれないの?」
足元に見えるゴウの手と自分の足を見比べながら、ミューが聞いた。
「聞きたいことだらけだよ。そもそも川の中なのに、なんで呼吸も会話も普通にしているんだ?」
全てがわからない状況に、ハチが首を振ると、ハチの髪は漂うにゆっくりと揺れていた。
「え、エラ呼吸?」
自分の体に変化は感じていなかったものの、花が歩くよりは可能性が高いのではないか。普段ならバカバカしいこの解答であるが、例外としかいえないような存在を目の当たりにしたミューは勇気を出して口にした。
「その器官は増えてなさそうだよ」
考える間もなく返された答えに、ミューは黙って、ゴウの手をとった。試しに軽く引っ張ってみると、ゴウの体重が重いのか、黒いものがゴウを気に入ってしまったためなのかは定かではないが、持ち上がりもしない。
「ハチ、動かない」
ハチも手伝おうとミューとは反対側に回って、手を伸ばしているところだった。
「もう一度」
ミューは頷いて、もう一度ゴウの手をとった。ハチはゴウの手首を握り締め、引き上げようとした。持ち上がらない。
「力が分散されているってこと?」
ミューの言葉に、ハッとしてハチはミューの近くに寄った。ミューは小さく頷いて、再び、ゴウを引き上げようと力を込めた。
「力が伝わらない」
踏ん張ろうにも地面がない。なのに、重力は地上と同じくらいに感じられる。
「そもそもゴウが飲み込まれているのは何?」
どうにもならない自分自身に腹を立てたという様子で、ミューは舌打ちした。
「比重?」
「でも、それなら、わたしたちだってゴウと同じところに行くことができるはず」
力技がきかないだけではなく、理解の範囲も超えたことに苛立ち始めていた。立ち尽くす、正確には、漂い尽くす、二人に新たな振動が伝わった。
「すごいね。ここで目覚めたんだ」
声が伝わってきた方向に、体ごと向き直ったミューとハチは、何者かが目に映ることを予想していたが、それも見事に打ち砕かれた。
「誰? どこにいるの?」
ミューの言葉が振動となって、ハチにも伝わる。
「ここ」
また別の方向から同じ声が伝わってきた。同じように、そちらを向いてみるが、やはり、そこには何もいないように見えた。
「わからないから聞いてるんじゃない。姿を現して」
ミューはイライラを募らせ始めた。
「本来なら、声だって出さないよ」
またしても同じ方向から、緊迫感を全く感じさせない声が届いた。
「本来は無視して、この場に来て!」
ハチはミューの中の何かが、ブチッという音を立てて千切れてしまった幻を見たような気がした。
「ミュー」
自分とそう年齢が変わらないように見えるこの少女は、頭だけではなく、別の意味でも切れやすいのではないか、とハチは疑い始めていた。
「これだから子どもは」
静止しようとするハチの声を遮って、その声が流れてきた。
「子どもも大人も関係ない。姿を見せてと言ってるの」
ミューはもしかしなくとも、かなり血気盛んな人物なのかもしれない。ハチは頭を抱えた。
「まぁ、ここで目を覚ますなんて存在が珍しいし、その上、同時に二人」
サービスしちゃうかな、という声が伝わってきたと同時に、ミューとハチを取り巻く水も大きく揺れた。透明のはずだった空間の色が次第に濃くなっていく。目の前に現れたのは、青い体をした海獣の一種のようにも見えた。
「トド?」
呟くハチをミューが小突いた。
「違う。ジュゴンだよ」
優美といえば優美、ユーモラスといえばユーモラスなその姿は、もしくは、よく間違われるマナティかもしれない。
「どっちでもない」
ミューの訂正も虚しく、本人からの訂正が入った。
「じゃあ、何? いや、誰? なんて呼べば」
「タイムキーパー」
ハチの質問を遮って、ジュゴンのような風貌をしたタイムキーパーは器用にも尾びれを軸に立ち上がるようなポーズで答える。
「俺たちは」
「いや、いらない」
花の一件を思い出したハチは自己紹介をしようとしたのだが、またもや、言葉を遮られた。
「一つの存在を覚えているほど暇じゃないんだ」
動きの鈍そうな見かけに反して、その言葉は鋭く素早く反応する。
「この世界の人たちにとって、個は不要なの?」
ただ純粋に疑問だというようにミューは聞いた。
「そういうわけじゃないさ。ただ、私の管理している時間は誰に平等に流れていく。それこそどんな存在にも。全ての存在の時間をここで管理しているのが、この私、タイムキーパー。だから、いちいち、それ以外のことを覚えている余裕はないって言っているんだ」
その説明は早口のようにも思えたのに、ゆっくりとハチとミューの中に染みこんだ。
「ここは、どんな仕組みになってるの?」
今度は遮られることなく質問を言い切れたことにハチは胸を撫で下ろした。
「お前に理解できるかね」
 タイムキーパーはハチを一瞥して、おもむろに溜息をついてみせた。
「あんたたちが最初に入り込んだのは、過去。この色が変わっているところがそうだ」
タイムキーパーは、なおもゴウが浸かる部分を指差した。 「ここから見ると泡に見えるものが、なにかが残した過去。残さないと前に進めないと感じられた過去が残されていく。その一方で、留めておきたいと願う過去を残せば残すほど、時間を戻すことができる」
流れる泡を見ながら、ミューは自分自身の行動についても通じる疑問を口にしたいと思った。
「過去に戻って何かをしたら、未来は変わってしまう?」
話の腰を折られたのが不愉快というような視線をタイムキーパーは向けてきた。
「『未来を変える』って、あんたたちのいうところの決まった『未来』っていうのは、なんなんだ? 妄想のことかい?」
「でも」
「間違えるな。変えられるものは『今』しか存在していない。あんたのいうところの未来は『今』の妄想で、過ぎ去った過去の記憶が『今』を作り出す。これは誰にとっても平等なことだ」
さてと、とタイムキーパーは一息ついてから、流れ去る泡を指差して続けた。
「水面ぎりぎりの部分が未来への流れ。早く時間を進めたいなら、そこで流され続ければいい。ほかに質問はないか」
タイムキーパーは胸鰭を前に差し出しながら、胸をそらした。
「ここは?」
「ここは想い。本当に必要な奴しか、ここで意識を保つことはできない」
「想いって何?」
「想いだ、願いというときもある」
「なんで、ここに『想い』があるの?」
「伝えたいという強い想いは、やがて空気に溶け出す。空気に浸み込んだ想いは、ここに降り注ぐように入り込む。その流れ着く先がここだ」
タイムキーパーは胸鰭で足元を示した。
「ここは、想いだらけになってパンクをするっていうことはないの?」
ハチの質問を、タイムキーパーはクッと喉を鳴らすようにして笑った。
「想いは受け取られるとここから消えるさ。もっとも自分のことで手一杯の奴は気づかないだろうがな」
ミューとハチは、居心地が悪いというように視線を泳がせた。
「ゴウは、一緒に来た従姉弟はどうして『過去』から出せないの?」
話題を変えようとゴウの手を指差しながら聞いたミューの耳には、タイムキーパーのあんたたちは大丈夫だという慰めが皮肉にも届かなかった。
「なにか面白いものでも見ているんじゃないか?」
「『過去』に浸かりすぎて戻ってこられないなんでことはない?」
心配そうなハチの表情を飛ばす勢いでタイムキーパーは吹きだした。
「大丈夫だ。世の中は実に多くの可能性に溢れているが、時間だけは一方通行に流れていく。どんなに過去に浸かっていても、流れてしまう。あんたのようなケースでもな、ミュー」
一個の名前すら覚えていないと言い切った存在の意外な一言にミューは息を飲み込んだ。
「知ってたの?」
ウィンクするタイムキーパーをミューは軽く睨んだ。
「どういうこと」
二人だけで展開される会話にハチは眉根をしかめた。
「わたしたちが二〇二四年から来たってことを言ってるんでしょ」
ハチの動きが止まった。ミューは目を見開いて、ハチを見た。
「あれ? 言ってなかったっけ?」
目を瞬かせるミューとは対照的に、ハチは目を見開いたままだった。 「初耳だよ」
ハチは溜息をついた。
「まあ、そんな話、信じないでしょ」
ミューは口笛でも吹いてごまかそうとしていた。
「今さら何を、ここでこんなのを目の当たりにして、何を信じないと主張すればいいんだよ。信じるよ。ミューはミューだ」
ミューは息を飲み込んだあと、顔をクシャっと崩した。
「でも、こんなに長い間、人の『過去』を見て、ゴウは混乱しない? ゴウはまだ子どもだわ」
「あの中で見たものは夢としか認識できないから大丈夫だろう」
「そうなの?」
驚いたようにハチは聞き返した。
「あんたたちは特別だよ。ここで目を覚ます奴は過去から目を背けることができない。誰かに伝えたいと願う想いか、誰かの想いに気づかないといけない」
「ゴウは?」
ミューは誰よりもここを必要としているのがゴウだと感じていた。
「あいつに『ここ』は必要ない。嘆く過去もない。全てがこれからだ。だから、あいつはここでは目覚めない」
「それなら、ゴウはこの後どうなるの?」
このまま永眠という可能性にミューは青ざめた。
「時が経てば、未来の流れに乗って、地上にいた場合の時の流れと同じになったところで目覚める」
今度はハチが首をかしげた。最悪の可能性を否定されたミューは、ほう、と息を吐き、肩の力を抜いた。
「俺たちは?」
ここにいる時点で何かおかしいと感じ始めたハチは、タイムキーパーのつぶらな目を見つめてその一言に全てを込める。
「ここでは地上と時の流れは変わらない。好きなときに出て行けばいいさ」
そろそろ仕事をするかな、というタイムキーパーをミューは呼び止めた。
「人の過去や想いが伝わってしまうことがあるの?」
珍しく不安の色を滲ませるミューの目は真剣そのものだった。
「それは自分に聞いてみな。お子ちゃま」
タイムキーパーはニヤリと笑った。ミューが頬を膨らませて、不満を訴えると、タイムキーパーは声を立てて笑いながら、そろそろ戻ると伝えた。
反論しようとしたミューが口を開くころには、もう何も見えなくなっていた。
「消えちゃった」
タイムキーパーが消えた先を見続ける、ミューの肩を叩いて、ハチはゴウを指差した。
「どうする?」
うーん、とミューは頭を抱え込んだ。
「ゴウがそこから消えたら、わたしたちも上に向かおう」
ハチは頷いて、その場に座るような仕草を見せた。
「何してるの?」
怪訝そうな表情を浮かべて、ミューは問いかける。
「くつろいでみようかと思って」
漂っていることには変わらないのに、空気イスを体現するハチにミューは首をかしげた。
「なにか変わった?」
別に、という答えを予想しながら、ミューは問いかける。
「姿勢がかわった」
ニヤリと笑うハチに、ミューは笑った。呼吸はできるものの、一応、水中のようで、水はそのまま水に流れ込んでいくので、その必要はないとも思ったが、ミューは笑って目尻にたまったと感じた涙を拭う仕草を見せた。
「そういえば、わたしたちが持っているかもしれない『伝えたい想い』か、受け取らなきゃいけない『想い』は何か見当つく?」
ハチは驚いたというように、眉を上げた。
「自分が話しにくいことを、人に話させようとするなんて」
軽く睨むハチに、ミューは慌てて手を左右に振って否定した。
「違うって。わたしは感じたの。でも意味がわからなくて。もしかしたら、ハチも同じものを受け取ったんじゃない?」
「ほら、言わせようとした」
「わかった。ビリーブ。わたしから言うわよ。感じたのは『I miss you』」
ミューは口を尖らせてみせた。
「それだけじゃないだろう?」
意地悪を楽しむように、ハチは目を細めてミューを見た。
「それはプライバシーの侵害。ハチも同じでしょ?」
頬を膨らませるミューに、ハチは笑った。
「お互いに話したくなったら話せばいい」
ハチはそう言うと、どこか、を見つめた。
「コクトウに似てきたわね。わたしたち。ところで、ハチは『I miss you』の意味わかる? 苦手な英語だけど」
「そのくらいはわかるよ。俺も感じた誰かの『I miss you』の意味は」
ハチの言葉に、ミューは焦点を定めることなく、ただ、この空間を見た。
「それは誰に、どんな気持ちで伝えようとした想いなんだろうね?」
どうせなら、赤面するくらい自己描写に優れたラブレターを預かったほうが、幾分、面倒は少なかったのかもしれない。
「そこは、英語のわかる俺もわからない」
「コクトウに会ったら英語で会話希望と伝えておく」
ミューの言葉にハチは焦り、ミューはその様子を見て笑った。
「もう、消えたかな? 誰かの『I miss you』は」
受け取り手が自分かハチであったなら、その言葉は消えたはずだった。一体、誰に伝えようとしたのか、どう伝えるのか、それは無責任なほどにわからない。
「それもわからないな」
『I miss you』だけではなく、確かに自分宛として受け取った別のメッセージですら、その意味がわからずに、ただ、その言葉を受け取ったのに、誰かに届けなければいけないこのメッセージは一体、どのように扱ったらいいのだろうか。この扱いに困る贈り物は、どの程度の時間、お預かりしなければいけないのだろうか。とんでもない大役を力不足のまま与えられてしまったという種のありがた迷惑に近い、幸運が二人の中にあった。今も漂っているかもしれない『I miss you』を探すように、そこからヒントを探すように、二人はただ空間を見ていた。ゴウが見ている過去は、一体どんなもので、ゴウはどんな想いをこれから伝えて、受け取っていくのだろうと、視界にゴウを捉えたミューはぼんやりと考えていた。
「ハチ」
「なに?」
暇を持て余す隣人のハチは昼寝でもしていそうな口調だった。
「ありがとう」
「どうしたの? 何もしてないよなぁ」
「別に。ハチがハチでいてくれたことが、ありがたいなって思ったの」
さして深い意味はないことを口にしただけとも、ただ疲れているようにも見えるミューにハチは苦笑いした。
「人、信じすぎじゃない? だまされるよ」
「優れた第六感が発明にも役立ってくれているの。わたしはわたしの仮説を信じてみることにするわ」
ミューはハチにも漂う何かに視線を合わせることもせずに、変わらぬ口調で答えた。
「ありがとう」
ハチが呟いた一言にはミューの返事はなかった。ハチの周りの何かを揺らし、何かに溶けていった。それでも同じ場所にいるミューには、その響きが伝わったかもしれない。ただ、それは全く定かではない。
静かになった方向にハチが顔を向けると、そこには気持ちよさそうに寝ているミューの姿があったのだから。ゴウは過去にどっぷり浸りながら、ミューは何かに漂いながら安眠を貪っていて、自分だけが眠気を我慢するのはフェアじゃないという、スポーツマンシップに則り、この少しは安全なこの場所で、ハチも本能に従うことにした。

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