仮レ宙

18,Heaven helps those who help themselves.
《天は自ら助くるものを助く》

川の水が青い空を映し出し、濃い青を作り出す。その上を姿なく自由に遊びまわる光が、自分の姿を見て楽しんでいるかのように跳ねている。光に更なる楽しみを提供するように水が跳ね上がった。
「これは大物がかかった!」
期待に溢れた声が河川敷に響く。
木の枝に、糸をつけただけの簡単な釣竿が大きくしなる。大物を釣り上げるには、力不足にも感じてしまう釣竿は、予想外の働きを見せ、大物の姿を水面近くまで引き上げていた。
「頑張れ! 釣竿」
その応援が釣竿の力となったのか、ザバッという音とともに大物が姿を現した。
「ぶふぉっ」
「し、死ぬかと思った」
「ミュー、その声はないよ」
獲物は、活きのいい音とともに濃い青から開放感たっぷりな薄い青の下へと飛び出す。獲物たちは、大きな円を描くように宙を舞ったあと、緑の芝の上に落ちた。
「痛っ!」
またもや腰を強打したゴウとどうにか着地を決めたミューとハチの反応は様々だった。
「地面がある」
「明るい」

あのヘドロのような過去に飲み込まれていたゴウを引き上げようとしていた苦労を考えると、今、当たり前にある地面と空気、明るさに感謝したい気持ちでいっぱいなのだろう。ハチとミューは河川敷に感謝の言葉を伝え始めていた。
「おいっ」
釣り人を無視して繰り広げられる三人それぞれの行動に、釣り人が荒い声を上げた。
「それにしても、長い夢を見ていた気がするよ」
自分たちへの呼びかけとは露ほども思うことなく、ゴウがミューとハチの同意を求めた。
「どんな夢を見たの?」
「いろいろ見たんだ。悲しい事故の夢や楽しい学校生活だったり、誰かに恋する夢だったり、なんだか、とても忙しかった。一気に十歳は年をとったような気持ちだよ」
ゴウは大げさに溜息をついてみせた。ハチとミューは、苦笑いをしていた。
「そっか」
ミューの微笑みは、どこかもの寂しいとゴウに感じさせるものだった。
「おいっ」
足音が近づいていきた。ハチがようやく、声のするほうに視線を投げた。
「人が呼んでるよ」
「本当だ。人だ」
感心したようなミューの態度が、その人を不機嫌にしたようにも見える。
「なんだよ? 魚」
不機嫌そうな人が伝えた存在を探すようにゴウはキョロキョロと辺りを見回した。けれど、そこには、その名前に相当する生き物を見出すことはできなかった。
「魚なんていないじゃん」
「お前らが、魚だろ」
不服そうに口を尖らせるゴウに、さらにイラついたようにその人は断言した。
「魚とか言っちゃってるよ」
「やっぱり、人の形をしていても、ちょっとオカシイのよ」

ゴウの耳打ちにミューは諦めたように応じ、その人をじっくり観察する。少しボロボロすぎるともいえるカーゴパンツに、もはやシースルーの域に達しているTシャツ。手入れをしていないのか、ボサボサという表現がぴったりな自由奔放に伸びた茶色に色あせた髪と無精ひげ。コクトウとジョギングしているだけでも出会う可能性のある存在だった。
「いや、俺たちが見えてないだけで、何かが見えているのかも」
「どっちにしても、違う世界の番人ってこと?」
「どうしたらいいの?」
身を寄せ合うように、三人は囁きあった。
「オレの話を聞け。魚ども」
なまじ人の形をしているだけに性質が悪い、といいながら、ミューがまず男に向き直った。ゴウは、魚の定義が違うのだと、ハチに主張していた。
「お前たちは、オレに釣られた食料だろ」
男はゴウに手を伸ばした。ミューの顔が青ざめた。
「カニバリズム」
「いや、もしかしたら、人の姿をしたホオジロザメかも」
「ハチ、それは、全く慰めになってないよ」
またしても、目の前の存在を無視して繰り広げられようとしている会議に、苛立ったのか、男は腕を胸の前で組んだ。
「人の姿をした人だ」
「じゃあ、やっぱり」
丸呑みはないだろうが、活け造りにはされてしまうかもしれないという恐怖に包まれた。
「お前たちは、食べられる臭いがしない。だとしたら、何者だ? どこから来た?」
「ごく普通の子どもで、北区から」
食料ではなく、せめて手下への格上げを狙ったゴウは、どうにか気に入られようと、体をしならせて、飛び切りの可愛らしい笑顔を浮かべた。何度も瞬きをし、瞳を輝かせる。
「名前は?」
「長谷川郷」
先ほどの花の一件を思い出し、正直に名前を言ってしまったことをゴウは軽く後悔をした。男は、値踏みするようにゴウを見るてきた。
「なんでここにいる?」
「いろいろな経緯があって、今は迷子」
「当初の目的でいい」
「それなら、僕のママに会いに、二〇二四年から来た」
 西暦で伝えても無駄な世界かもしれない。
「念のため、そのママとやらの名前は? 知っている奴なら案内するさ」

この男が役に立つとは到底思えなかったが、名前を教えるくらい特に大事でもない。もしかしたら、何かの役に立つかもしれないと、ゴウは前向きに考えてみた。
「彩。今はまだ高橋彩」
男は、ふうん、と呟くと、右上に視線を向け、あごに手を添えた。
「よくわからないな。仕事は?」
男はゴウの顎を掴み、自分のほうに向けた。
「まだ中学生と小学生よ」
「それが仕事か?」
ゴウの顔を見ながら、ミューの言葉を念押しする男に、そう言われるとそうかも、とミューはあやふやな返事をした。二人のやりとりを見ていたハチが口をひらいた。
「あなたは?」
「夢売り」
「それは嘘だ」
即答した男に、負けないほどの速さでゴウが反論した。
「どうしてそう思う?」
不思議だというような顔で男はゴウを覗き込んだ。
「夢に満ち溢れたいたいけな子どもを食べようとする奴に、夢が売れるはずがない」
臆することなく断言したゴウを男は鼻で笑って、掴んだままだったゴウの顎を離した。
「夢は有料だ」
お金を持たずに、ここに辿り着いてしまった三人には参考価格も確認する気持ちにはなれなかった。代わりに、ミューが溜息混じりに別の質問を口にした。
「ボランティア精神のかけらもないの?」
「生きるっていうのは、営利主義と同義語だ」
「そういう風に割り切れるようになるのが大人?」
 ここまでミューの力を吸い取る対応をする男は、なかなか油断ならない。ゴウは、ただただ、そのやりとりを見守っていた。
「違うな。大人に必要なのは演技力だ」
「初耳だけど?」
「子どもにはわからないさ。演技審査で落とされる奴もいっぱいいる狭き門だ」
「オーディション方式?」
 誰にも拾われないような小さなツッコミを入れるハチの声をゴウは聞いたような気がした。たぶん、ハチの世界は、想像以上に広くて深い。
「あなたは審査通ったの?」
「審査員特別賞受賞だ」
「それは信じがたいけど、演技をするのが大人なの?」
「いや。それはただ必要なスキルに過ぎない」
「じゃあ、なに?」
「自分のわがままを貫き通すのが大人だ」
「それは、子どもじゃない」
「違うさ。わがままを貫くっていうのは逃げ場を失うってことだ」

 かっこつけて話す男の姿には、説得力があった。リサイクルショップでは、引き取りすら拒否されるほどまでに履き込まれた靴。すでに、余生も終え、通常であれば、天に召されているだろうTシャツ。もしかしたら、転生を終えているのかもしれないカーゴパンツ。そして、無精ひげ。
「むしろ逃亡者のようにも見えるけど?」
 ゴウはミューの正確すぎる表現に、心の中でエールを送った。
「せっかく人が、心が震える名言を生み出したというのに」
 男の会話は、どこまでもつかみどころがなく、どこまでもふざけているようにも感じる。
「あまりの寒さに体が震えたわ。ところで、そんな大人がどんな夢を売るの?」
 きっとミューにしてみれば、ただ会話を打ち切りたかったのかもしれない。けれど、男にしてみれば、その瞬間に、ミューが客へと姿を変えたようなものだった。
「オーダーメイドだからな。事前のコンサルティングによって変わる」
男はミューを品定めでもするように、観察した。値踏みでもしているというのだろうか。
「これは、面倒なフラグが立ったわ」
ミューの小さな呟きに、ハチが、同感、と答えていた。
「場所だけ、聞こう」
ハチの提案に、ミューとゴウは静かに頷いた。
「なんの場所を、聞くって?」
会話を耳にした男の目が光った。
「もしかして、それも有料?」
いやな予感を口にしたミューは、そのまま表情を曇らせた。
「いや。それは取り扱いの商品に含まれない」
「教えてくれるの?」
肯定以外の答えは言わせないという決意を込め、ゴウは先ほど失敗した愛らしい顔にさらに笑顔を盛り込んで、男を見つめた。
「女王の居場所を知ってる?」
男に擦り寄るゴウを無視して、ハチは男の目を見た。
「知っているさ」
「どこ?」
男は、少し上流にある中州を指差した。
「あそこに大きな中州と小さな中州があるだろう。その小さな中州にやってくるんだ」
「それだけ?」
首を縦に動かしながら聞いていたミューは唖然とした。男はニヤッと笑った。
「それには条件があるさ。まず、大きな中州に下りるために、Q橋から伸びるU橋に渡って、大きい中州に下りるんだ。そこから、小さな中州に架かる二本のeという橋を必ず一回ずつ渡り、小さな中州から来い橋に架かるN橋を渡る。それができると、女王が現れる。それぞれの中洲には、それぞれ右岸と左岸にかかる補助橋がそれぞれ一本ずつかかっている。これを使ってもいい。ただし、使うなら、全てを一回ずつ必ず使わないといけない」
「よしっ! やるぞ」
気合を入れているゴウに、男はニヤリと笑った。地面に木片で説明された内容の図を描きながら話を聞いていたミューは、あんぐりと口を開けて男を見た。
「頑張れ」
「それって」
ミューが描いた図を覗き込んだハチが、ミューに問いかけた。ミューは大きく頷いた。
「うそつき」
ミューは男を睨みつけたが、睨まれている男はどこ吹く風。
「ああ。オレは嘘つきなんだ」
「やっぱり」
「認めちゃったよ」
堂々とした男の様子に、ミューは項垂れ、ハチも力なく溜息をついた。
「厄介だね」
「どういうこと?」
ミューとハチを交互に見比べて、ゴウは聞いた。
「何を信じたらいいかわからなくなった」
力なく返事をするハチに、ゴウはわからないというような表情を返した。
「とりあえず橋を渡ればいいんじゃないの」
「説明された条件通りには渡れないのよ。e橋を二回渡ってしまったら、小さな中州にもN橋にも着かない。補助橋を使うとしたら、全部の橋を使わないといけない。ということは、せっかく小さな中州に戻っても、また大きな中州に戻ってしまう」
ミューは不機嫌の大暴走を抑えつけながら説明した。そして、とハチが言葉を続けた。
「『オレは嘘つきだ』と宣言したということは、嘘つきだということを正直に認めていることになるのか、正直者であるということを嘘ついているかで、どちらにしても、正直者でも、嘘つきでもないんだ」
「つまりはどういうこと?」
「最初に言ったとおり、何を信じたらいいかわからなくなったってこと」
「じゃあ、どうするの?」
「自分で判断するしかないってこと」
ハチはゴウに答えを律儀に返してから、男に向き直った。
「どっちの方角に向かったらいいと思う?」
「さあな。お前たちが来たのは、お気楽ベアーの森からだろ? それなら、反対側のアッチを目指せばいいだろ」
男は中州の先を指差した。そこは確かに、三人が目指していた上流の方角だった。
「『お気楽ベアー』って、全然、お気楽じゃない奴にしか会わなかった」
「奴はお気楽だ。気楽に情緒不安定だから気分がいいときだけ付き合っておけ」
「気分屋タグがついてるかも」
ミューはゴウの左腕を指差す。ゴウは忘れたいことを思い出せる従姉弟の顔を睨んだ。
「奴にタグはついてない。森の主だが、誰も近づかないさ。森の外では熊望がないからな」
ミューは心から納得したというように、大きく頷いた。
「情緒不安定すぎて、誰もついていけなくなる」
「その前に、走り出す花もちょっと様子がおかしかったわよ」
「花たちのことか?」
複数形になっていることが正確だと仮定すると、それは想像したくない光景を意味する。
「いっぱいいるの? あんな高飛車なのが?」
思い出したくないものの、思い出してしまえば好奇心が勝ってしまう。ゴウはまともな答えが期待できない相手に問いかけた。
「高飛車じゃないさ。あいつら意外と可哀そうだぜ」
あの態度、そしてID卿を従えている光景は、可哀そうから、随分かけ離れていると、ゴウは首を捻った。
「あいつら、貢物で生活しているが、動けるくせに、移動だって自由にできない。自分では何も決めることができないんだぜ」
あの足を一生土の中に入れたまま、見るものを楽しませるだけのために生きるということを想像したのか、ハチとミューは身震いをしていた。ゴウにはタグを勝手に埋め込むはた迷惑な奴でしかなかった。
「ねえ、名前はなんていうの?」
男は一瞬だけ動きを止めたが、名前を聞いたハチを見ると、ニヤリと笑った。
「イディオレクト」
「聞くだけ無駄だったかも」
「ミュー、後悔役立たずだよ」
「先に立たずでしょ」
「どっちにしても、役に立たないもん」
「後悔、大変結構じゃないか」
 ゴウたちの小さな後悔を作り続ける大きな要因となっている人物が口を挟む。
「後悔なんてないほうがいいよ」
 この会話を続けること自体が後悔を生み出しているのかもしれない。
「そうか?」
「そうだよ。後悔をしないほうがいいに決まってるよ」
「決まってるのか。後悔ができる幸せを知らないのは幸せな証拠だ」

 男はフッと笑って、ゴウの頭に右手をポンと乗せた。その仕草のせいか、微笑みのせいか、ゴウは初対面の面倒臭いこの男の中にコクトウを見た気がした。
「どういうこと?」
「さあな」
「教えてよ」
「どんな選択をしても後悔はできるが、終わらない限りはできない。お子ちゃまには難しい話だな」
「子ども扱いするな」
 ムッとするゴウを男は鼻だけで笑った。子ども扱いをされたいけれど、されると腹立たしい。大人として見られたいけれど、見られると不安になる。そんな不安を抱えていることを従姉弟のミューは、どこまでわかっているのだろうか。
「ゴウ、名づけてあげなよ」
「なんで、こんな奴に」
反論しようとするゴウの左腕を指差して、ミューはニヤリと笑った。
「呼びにくいでしょ? あの偽名」
「なんで偽名だと決めつける?」
「だって、言葉がそのまま通じるってことは、定義自体はほぼ同じってことでしょ? それなら、名付け親がそんな名前をわざわざ選んでくるとは思えないんだもん」
「これだから女はイヤだ」
 ハッと男は鼻を鳴らした。ミューの逆襲が始まる前に、ゴウは仕方なく口を挟んだ。
「こんな奴、イイカゲンで十分だよ」
こんな役割はもう十分だと溜息をつくゴウに、ハチは静かに拍手を送った。
「そんな名前はいらん」
「この世界の仕組みは知らないけど、タダだからもらっておきなよ」
「タダほど高いものはない」
ニヤリと笑った男を見て、負けてたまるかというように、ミューはニヤリと笑い返した。
「置き土産」

ミューはクルリと身を翻して、上流の方向を見た。この川を辿っていけば、やがては上流だという単純な解答を導き出した三人には、ゴールは明確なようにも感じられた。
「ゴウ、ミュー。そろそろ出発しよう」
探していた答えの欠片に出会えたのか、出会えなかったのか。答えに近づけたのか、遠ざかったのか。判断すら下せぬまま、三人は、より答えに近いと信じた方角へ歩き始めた。
「食料を置いていけー」
上流を目指す三人の耳に叫びのような、錯覚だと認識するものが追いかけてきた。

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