仮レ宙

19,A guilty conscience is a self-accuser.
《罪を意識する良心は自己告発者である》

ポ。ポツ。ポツポツ。
パパパパパパ。バシャバシャバシャ。

その音量とともに、ハチ、ミュー、ゴウの三人に降り注がれる天の恵みも無視できないものになっていった。
「あそこっ」
ゴウが指差す先に、真っ白な小さな家があった。ハチは頷いてミューを見た。河川敷の家には、あまりいい思い出はないのだが、この際、わがままなど言っていられない。
「雨宿りさせてもらおう」
ミューの合意で、三人は家に向かって走り出した。

家を取り囲むように野菜の植えてある庭があり、庭を取り囲むように白い小さな柵が立てられ、小さな柵の切れ目に郵便受けと表札があり、表札にはHouse of Orator(雄弁者の館)と書かれていた。
「とても、嫌なフラグが見えるけど」
ゴウの言葉に頷きながらも、ミューはドアのほうに足を進めた。インターフォンなどはないように見受けられた。ドアをノックするしか方法はない。偉そうに、ふんぞり返って対応する人の姿を想像し、あまり乗り気にはなれなかった。
「でも、夏とはいえ、この豪雨を浴びていられない。頭がいびつになっちゃうもん」
ミューは息を大きく吸い込んだ。
「すみません」
どこから出したんだとゴウが驚く余所行きの声を出して、ミューがドアを叩いた。
「いないのかな?」
ミューの声に驚いて固まったままのゴウを尻目に、ハチはドアノブに手を伸ばした。
「どうぞ」
ハチがドアノブに手を触れるかどうかというところで、中から女性の声が聞こえた。三人は互いに顔を見合わせて、頷いた。
「お邪魔します」
ドアをそっと開いた。三人の目が、声の主を探るように、キョロキョロと元気に動いていた。けれど、姿は見ることができない。聞き間違いかもしれないと、不安になり始めたころ、三人に新たな言葉がかけられた。
「中へお入りください」
「はい」
まだ、姿は見えない。ミューが決意したように、その足を三歩ほど中に進みいれた。追いかけるようにして、ハチとゴウも中へと進んだ。
「靴は履いたままですか?」
靴など見当たらない玄関で、ミューは誰かに問いかけた。
「そのまま、お進みください」
なおも姿なき声が返ってきた。ゴウはミューとハチの手を引いた。
「怪しいよ」
ミューとハチの耳元で囁かれたゴウの言葉に、二人は声を出すことなく、頷いた。警戒して家の中を見回すが、そこにはただ白い壁があるだけだった。キッチンもない。ただ何もない白い部屋があった。
「あの、どこへ進めば」
クスクスという笑い声が聞こえた。
「お話ができるところへいらしてください」
気取った声が伝えてきた。ミューは眉間にしわを寄せて、ハチとゴウに不快感を伝えた。
「ありがとうございます。中へ入れてくださって。とても助かりました」
依然として、姿が見えない主に向かって、ミューはお礼を述べた。
「頭がいいことを鼻にかける嫌な奴だよ」
先ほどの声とは違った。ゴウはギョッとして、声のした方向を見たが、はやりそこには、だれもいなかった。
「いいえ。ようこそいらっしゃいました。ごゆっくりと」
案内をしてくれた声が、丁寧なお礼を述べた。声がした方向には、やはり誰もいない。
「ありがとうございます」
聞き間違いだと思いたい不快な言葉を無視して、ミューは再度、お礼を述べた。
「何様?」
「聞こえないんじゃない?」
「自分に都合のいいことしか聞こえないんだよ。優秀な方は」
新たな声が囁きあう。ミューは眉をひそめて、白い壁を睨みつけた。
「姿を現したらどう?」
ミューの言葉が白い部屋に響き渡る。クスクスという小さな笑い声がさざなみのように押し寄せてきた。
「おーおー、怖い、怖い」
「勉強ばっかしてる奴は怒りっぽくなるんだよ」
「人の気持ちなんて考えたこともないだろうからね」
「友達いないだろ」
「自分が頭いいと思ってる奴ほどバカな奴はいないからな」

あちらこちらから新たな声が生まれる。
「誰のこと?」
白い部屋を見回しながら、ミューが微かに震える声で聞いた。
「自分は違うと思ってるよ」
「特別な愚か者だな」
「勉強が友達です!」
クスクス、とさざなみのような笑い声がまた響き渡った。
「口?」
ミューが指差す方向には、ただ白い壁があるだけだった。
「今度は無視だよ」
「性格悪いだろ」
「根暗なんでしょ」
「いつも一人だ」
「誰にも愛されたことがないからさ」

それぞれ異なった位置に、ハチもゴウもそれを見つけた。白い壁に、声の数だけ口があった。静かなときには何もない壁に、声が現れるときだけ、同じようにパクパクと動く。白い口しかなかった。けれど、その口の数は、無視を許さないほどの数があるようだった。ミューへ暴言は大合唱のように鳴り響いた。
「気持ち悪い」
ミューは青ざめた顔になっていて、口を左手で覆った。
「親にも面倒がられてるパターンだな」
「ってか、いらない子だ」
ミューは一瞬、目を見開いたあと、力が抜けたというように、その場に立ち尽くした。なおもさざなみが押し寄せる部屋の中で、ミューは言葉を失った。
「ミュー、無視して」
ハチは耳元で囁くように伝え、それっきり声が出せなくなったミューの耳を正面から、その頭ごと両腕で塞いだ。ゴウは、背中からミューにしがみついていた。ゴウは今、自分の中にある、言葉で表現できない何かを伝えたいと思った。
「性格悪い奴にもナイトがいるみたいだ」
「能がない奴が無視とか言うんだよな」
ハチの声を感じ取った声がターゲットを変えた。
「こいつ、兄貴と妹は有名人のできそこないだ」
「目の色が違う奴だ」
今、ここではハチにしかわからないはずの情報にハチの顔は青ざめた。
「お前ら、誰だ?」
「怒っちゃったよ」
「誰だっていいだろ。みんなが言ってる」
その声たちは、ハチには心当たりがあるような気もしたし、全く聞いたことのない声のようにも聞こえた。
「最近、女子に騒がれ始めたけど、所詮は、いらない子どもだもんな」
「おっ、いらない子つながり?」
「日替わりで、物好きな女子に慰めてもらってるんだろ」
「女子が全員そうだなんて言わないで」
「僕は要らない子だー! 慰めて」
「ギャハハッ」
白いさざなみは絶え間なく、活気を帯びて、動き続ける。ゴウは、ミューにしがみついていた右手を解いて、ハチの手を握り締めた。
「大丈夫」
ハチはゴウの手を握り締めて、頷いて見せたが、ハチの目から涙が流れていたのをゴウは見た。ハチはそんなことを気づいていないのか、あるいは、涙は実際には流れていなかったのか、なおも動き続ける壁の口を睨みつけていた。
「強がっちゃってるよ」
「あの事故でそのまま消えちゃったほうが幸せだったんじゃない?」
「運だけはいい失敗くん」
クスクスというさざなみのような笑い声と、ゲラゲラという騒音の笑い声が部屋の中に響き渡っていた。
「やめろっ! お前らがミューとハチの何を知ってるんだ」
白い部屋に、さざなみに、誰よりも先に、声を上げたのはゴウだった。

鋭いゴウの叫び声が笑い声の中に消えていった。ゴウの叫び声は、笑い声も、その合間に聞こえてくる言葉も止めることはなかった。ゴウの存在自体がなかったように、何事もなく、さざなみが生まれ続ける。
「お前こそ、偉そうに」
「何を知ってるっていうんだ」
無視をする大半の声の中で、新しい話題を見つけたとばかりに、少しの声が応戦した。何も知らない奴の野次だと思ってみても、その言葉は確実にゴウの中に広がった。ミューはゴウの従姉弟で、勉強ができて、運動もできる。あまり口を開かないくせに、開けば、その口が悪くて人使いが荒い。大人しくしてると思えば、実は大食らい。最近は高嶺の花扱いをされていて一人でいることが多い。そのくらいしか知らないということにゴウは衝撃を受けた。ハチは、つい昨日会ったシカにライバル視されるイケメンの種だということしか知らない。一体、二人の何を知っているというのか。ゴウには答えが出ない。それでも、感じることはできると思った。
「お前らの言葉で、血を流したことはわかる」
コクトウは傷つくのも傷つけるのも、自分次第と教えてくれた。誰もが、自分自身を傷つけている。それでも、前に進むために、絶望とならないところで止めている。それをわざわざ、他人が傷を広げる手伝いをする必要はない。だから、それなら、
「これ以上、人の事情に踏み込むな」
もしかしたら、声の言うことは本当のことなのかもしれない。けれど、それは、ゴウにとっての真実ではない。ゴウは、「何を知っているか」という質問の答えのないまま、今も動き続ける白い壁を睨んだ。
「何も知らないガキが生意気言ってるぞ」
「何も知らないよ」
ゴウは拳を握り締めて、暗い低い声で答えた。でも、ミューの背中が温かいことも、ハチの手が汗ばんでいたことも感じたのは確かで、ミューもハチも確かにここに存在していることだけは知っている。同意する口の実体はわからない。もしかしたら、同じように面白おかしく、誰かを批難すれば、その一つになれるのかもしれない。けれど、それは実体なのか。それよりも、それで自分自身が満足できるのかと聞かれれば、それはゴウにとっては間違えなく、その答えはノーであることだけは、わかった。何もわからなくても、それだけわかれば十分だと、ゴウは思いはじめていた。
「認めちゃってるよ。バカが」
「でも目の前にいるのは、お前たちじゃなくて、ミューとハチだ」
ゴウは拳を解き、確かめるように、ハチとミューの手を握り締めた。二人が握り返したことを感じて、ゴウは安心した。見上げると、ハチが微笑んでいた。ゴウがさっき見たと感じた涙はどこにもなかった。
「お前たちは、いつまで身を隠して、人の悪口だけでつながっていれば満足するんだ?」
壁を睨みつけたハチの声は、微かに震えていた。
「友達がいない奴が何か言ってますよー」
「誰ともつながれない奴が」
 白い壁は波打っていた。
「標的がいなくなったら、自分が標的にならないように身を隠しながら、別の標的を探すだけだろ? そんなつながりにどれほどの価値があるんだ?」
 ハチの力のこもった反論に、ああ、それがこの部屋の世界なのだとゴウはどこかで納得をした。その世界に、自分自身の言葉がどこまで響くかなんてわからない。何も変わらないかもしれない。それでも、何か変わってほしいと願った。けれども、残念ながら、どうしたらいいのかなど、今のゴウには到底思いつきもしなかった。

震えるようにして、ハチとゴウに囲まれていたミューが、もう大丈夫というように、その身を離した。白い壁は、相変わらず、歪に揺れながら、さざなみを生み出していた。
「一人なのは、わたしと同じでしょ。『自分は違う』と思っている特別な愚か者さんたち。お仲間として以後お見知りおきを」
ミューの張りのある声が白い部屋の中に響き渡った。
「お前と一緒にするな」
「私は違う」
口々に、反論が押し寄せてきた。壁はもう、平面ではなく、動く凸凹でしかなかった。至るところに、光の当たるところと影ができていて、その位置は規則も見出せないままに、自由気ままに変わっていく。光だったところが影に、影だったところが光に。
「みんな『自分だけは違う』って意見だけが一致するものね。わたしも同意見だわ」
ニヤリと笑って、壁を見返すミューは、もういつものミューだった。壁は、自分は違うと弱々しい反論を重ねていて、それが元で今度は新たな言い争いが生まれていた。ゴウは、コクトウとミューだけは敵にしたくないと呟きながら足を後退させる。ハチはその様子を静かに笑う、いつもの風景だった。ガラスのような繊細な自分の心を守るために、反論を続ける。壁が揺れるたびに、光はキラキラと輝いていた。空気を震わせる言葉に一番傷つくのは、結局は、その言葉を放った自分自身なのかもしれない。ゴウはそう感じていた。

絶えることない轟音のようなざわめきの中を抜け、ハチはドアを開けた。ドアの外は、先ほどまでの豪雨がおさまり、日差しが勢いを戻そうとしているところだった。
「お邪魔しました。豪雨も感じないほどの刺激的な時間をありがとうございました」
精一杯の丁寧な声でお礼を述べると、ミューは玄関に向かって歩き始めた。
「身を隠して束になれば安心だからって、誰構わず攻撃しちゃいけないよ」

ゴウは奇妙な発明物のおかげでここに訪れることになったことを思い出しながら、憎たらしくも、自分と変わらない卑怯な口に、親切なアドバイスをくれてやることにした。ゴウのささやかな反抗であり、小さな優しさを覗かせた言葉は、さざなみの中に飲み込まれ、何も残ることなく消えていった。部屋はいつも通りに、光を躍らせる新しい波を作っては消えて、また作ってと、確かに違うけれど、終わることのない同じ動きを繰り返す。光は影に、影は光に変わりながら、光が影を作り出し、影が光を映し出す。
ゴウは雨雲の隙間から差し込む光の筋に向かって歩き出したハチとミューに追いつこうと、まだ湿り気を帯びた大地の上を走り出した。

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