仮レ宙

20,If at first you don't succeed, try, try, try again.
《一度でうまくいかなければ何度でもやれ》

青い空を映し出す青の中から、水しぶきが生まれ、光の粒とともに、質量を持つ粒が乾いた大地に降り注ぐ。
「ぶふぉっ!」
おおよそ女らしいという定義からはかけ離れた声を発しながら、コクトウは久しぶりに空気に包まれることになった。水中から勢いよく引き上げられ、空中で弧を描いて見せたコクトウを見て、男は溜息をついた。
「またかよ」
大物ばかりを引き当ててくれる釣竿に、男は一睨みしてみせた。
「イテテ」
受身に失敗したコクトウは、左腕をさすりながら立ち上がった。履いていたショートパンツの腰部分にあるネームプレートにつながる釣り糸を辿り、男の前に仁王立ちをする。
「ちょっと、あんた! レディはもっと丁重に扱っておきなさいよ」
水分を多分に含み、必要以上のカーブを描く髪からボタボタと水滴が落ちる。仁王立ちをして、鼻息荒く伝えてきた人物を見て、男は目をパチクリとさせた。
「ああ、もうっ、こういう扱いばっかりだから、色恋沙汰が消えていくのよ。同じにドラマチックなら、ベットンベットンの恋愛ドラマのほうがまだずっとマシだわ」
コクトウは腰につながったままになっている釣り針を引き抜いて、地面に叩きつけた。
「また、食えねえものを釣っちまった」
不服そうな男を見て、コクトウは大きな溜息をついた。コクトウを釣り上げてしまうようなマッチョマンは大歓迎でも、この対応は歓迎できない。
「食えなくはないだろ。性格にしても、色恋沙汰にしても、そこまでイケてなくは」
自分の言葉に傷ついたのか、語尾が近づくにつれ弱々しいものに変わっていった。
「だって、食えそうもないじゃないか、黒いし」
「つまみ食いぐらいする努力をしてから言え。ドアホ。光源氏してみろ。こういうのがハーレクインでは好まれるんだ」
コクトウは信憑性に乏しい見解を眉をひそめる男に押し付つける。
「無茶言う奴だな」
潔いほど明確な拒否反応とは対照的に、その表情には怯えを隠せない。
「無茶って」
呆然と立ち尽くすドラマチックな人を目指したコクトウは、その前に気づいてしまった。
「その前に、ここどこっ? こちらの情報のほうが、この上なく失礼な、ぼろを身に纏った男の言葉より大切だわ」

仕方なく、そして最大限の勇気を持って伸ばされた男の手は、力なく、男の腿のあたりに落ち、乾いた音を鳴らした。所詮、ロマンスやロマンでは現実は生き抜けないというのが、今のコクトウの信条である以上、これは仕方のないことだった。
「大草原」
勢いに押されたのか、男は素直に答えたのだが、コクトウの目は鋭さを増した。
「それは違うでしょ。小さな家もないのに。河川敷なのはわかってる」
川を指差すコクトウに、男は溜息をついた。
「じゃあ、それでいい」
「じゃあ、じゃなくて、聞きたいのは、どんな世界か? ってこと」
「君のいない世界」
男の謎のような言葉は、コクトウの眉の角度をさらに鋭角にさせた。
「今、私がいるこの世界のこと」
右手を額に当て、コクトウは溜息をつく。疲れる奴ね、と呟いたコクトウは、凄みをきかせるように視線を鋭くした。
「とっとと、知っていることを吐いたほうが、楽になれると思うけど? お互いにね」
コクトウはとっておきの笑顔を作り、これ以上になく優しい声で説得にあたった。
「どうかな?」
ジリジリと後退しながら、男が最後の抵抗を見せた。
「試しに言ってみたら?」
コクトウの素敵な笑顔が硬化を始めた。男はそのことに気づいたのか、もしくは気づかないからこそというべきか、ニヤリと笑ってみせた。
「オレは嘘つきだ」
お試しの一言は、華麗な左フックだった。コクトウの動きを、ほんの一瞬ではあるが、封じ込めることに成功した。
「えっ! そこ? 違うところで正直になっておけ」

勝利の笑みを湛えた男に、コクトウの戦意が再燃した。勝負は始まったばかりだった。
「嘘つきだと認める正直さを持った矛盾だらけの嘘つきか。世の中はそんな奴だらけだわ」
公言するあたりが面倒極まりない。その図体のでかさで子どもじみたことはやめろ。コクトウは、男に見えない角度で吐き捨てて、なにやら準備運動を始めた。
「嘘でも、本当でも、質問に対して、たっぷり答えていただきたいわ」
ニッコリと微笑むコクトウに、恐怖を覚えたのは、男のほうだった。黒光りする余計な脂肪を感じさせない逞しい腕が、男の胸倉を掴んだ。
「で、魚たちはどこへ行ったって?」
もちろんか弱い女性の力など、成人男性は軽くねじ伏せられる。はずだが、やはり足元が地面につかない状態というものは、何者にとっても好ましい状況ではない。
「姉さん、ちょっと力こぶが出すぎ」
「余計なことは言わない」
たとえ短い時間でも、どんな関係でも、パワーバランスというものは生まれてしまう。
「あっ」
怯えた表情で、男が空を指差した。
「そんな古典的な手に誰がひっかかるかって」
男の行動が、ますます、か弱いお姉さんの機嫌を損ねた。
「ちっ、違う」
自己方言と主張する虚言癖の男が何かを伝えようとしていた。
「じゃあ、なに?」
腕力とともに眼力にも、か弱い女性の最大パワーが注がれようとしていた。
「しっ、失業!」

衝撃的かつヘビーな右ストレートに、コクトウはよろめいた。
「忌々しい。こんな、明らかに違う世界に来てもなお、この言葉に出くわすとは」
男の言葉は、確実にコクトウの急所を突いた。コクトウの力が緩んだことで、男の足が久しぶりに地面との再会を果たした。
「どういうことよ?」
ダメージを受けたおかげで、幾分、その口調も弱々しくはなっているが、パワーバランスに変化はないようだった。
「だから、あれっ! 失業が来ちゃったよ! 逃げなきゃ!」
空の一点を指差して、男は怯えたような表情を見せた。
「なに『失業』って?」
指差す方向に、優雅に羽ばたく鳥がはるか遠くに見えるだけにしか感じないコクトウは、不愉快さを隠せないというような表情で男を睨む。
「あの鳥の形をした奴だよ」
「鳥じゃない。まさか、騙したの?」
低く唸るような音がコクトウから聞こえる。さらに指からパキパキという音も聞こえる。
「違う! あいつに気に入られると、仕事も信用も何もかもを失うんだ」
最近とても親しくお付き合いさせていただいていたその言葉との、意外な場所での願っていない再会に、コクトウは舌打ちした。
「私は、ファンタ好きの爺さんと語り合えても、ファンタジーの世界には住めそうもない」
「同感。オレもだ」
男は本心から怯えているように見える。コクトウは呆然とする。そんな悪夢のようなものを実体化していいのか。いや、むしろ実体があるほうが親切か、と一人問答するコクトウを置いて、男はジリジリと足を動かし始めた。
「一人で逃げようっての? か弱い女性を差し置いて?」
鋭い指摘に男は、その身を震わせた。第六感というものなのか、野生の感なのか。男には逃げ場がないと感じていた。仕方なしに、自分より数段逞しいような気がしてならない、黒い女性の手をとって、男は走り出した。
「ねえ、あの鳥に木の実でもやっておけば、満足するんじゃない? 一応、鳥みたいだし」
「失業の怖さがわかってないな。一つの存在を気に入るってことばかりじゃない。欲張りとも思えるほど、同時に多くのものを気に入ることだってあるんだ」
「ずいぶんと移り気なのね。気に入られたらどうなるの?」
「丸呑みされる。恐ろしいことを言わせるなよ」
自分自身の腕をさする男の仕草に、信憑性がまた数ポイント上昇した。男がコクトウの手を離すと、コクトウは男の手首をガシッと掴んだ。
「食われるの? イコール死? それならまだ体験済みの失業のほうがマシだ」
「丸呑みされて、そのまま排泄される。で、出てきたときには何もなくなってる」
心からイヤだという表情を見せた男の横で、コクトウも顔を歪ませた。
「ねえ、この世界の住民ではない人はどうなるの?」
「なんにしても、一度、希望とやる気を失う。自己嫌悪スパイラルにはまる奴もいるな」
自分自身の甘い見通しに、コクトウは、ハハハ、と乾いた笑いを響かせた。
「ああ、失業。気に入られないことを願うわ」
乾いた虚ろな目で、コクトウはどこまでも青い空を見上げた。
「それにしても、あんた体力あるな」
息が切れ始めた男がコクトウを見て、何かに納得したというように頷いた。
「その見かけは伊達じゃない」
強力、かつ鋭利な光線がコクトウの目から発射された。
「つまり美人ということで」
眼力が腕力に変化することを恐れたのか、男はすぐさま訂正を入れた。
「あんた、嘘をつくと脈が速くなるわ」
呆れ果てたコクトウは大げさに溜息をついた。
「失業が気に入る奴の特徴ってあるの?」
「ない。奴は気まぐれに飲み込むんだ。逃げられるかは運しかない」

突然の質問にも模範的な解答ができるほど、揺るがない何かが生まれ始めていた。その模範解答を聞いたコクトウは、表情を少し曇らせた。
「仕事運と金運と恋愛運とくじ運には自信がない」
「ほかの要素はあるのか?」
念のために聞いておく、と前置きされた質問は、男にとっては失業から逃れられるかどうかを左右する重要なものだった。
「健康運」
失業に好まれてしまう可能性が非常に高い。恐怖と諦めに似た気持ちを持ち始めた男には、納得、としか返しようがなかった。

「行った?」
木陰に身を隠すようにして辺りを警戒しているコクトウは、同じように辺りを警戒しながら、一点を見つめている男に聞く。
「食事中」
コクトウも、男が張り込みをしている場所へと移動する。小さな集落の上から、家ごと吸い込むほどの勢いで失業は次々と住民を飲み込んでいった。その様子は巨大なハイパワー掃除機だった。
「なんだか申し訳ない」
そう呟きながらも、やはり自分ではなかったことにコクトウは安堵していた。
「明日は我が身だ」
「どこかで聞いた言葉」
「見ろ、最初に飲まれた奴らが出るぞ」
飲み込む一方だった失業を指差しながら、男が説明した。失業の尾羽の付け根あたりから、飲み込まれていたらしいものたちが次々と落とされる。
「本当に『排泄』ね。自分が排泄物になるのは、捕食者が失業でなくても無気力になるわ」
「最悪の気分が待っているだろうな」
「一度、食われてみてよ」
とんでもない提案をするコクトウに男は驚きの表情を隠せない。
「恐ろしいことを言うな。オレは遠慮する」
「あら、全てを失ったら、自分自身がわかるかもよ」
意地悪そうな微笑みを浮かべ、コクトウは男を見る。
「じゃあ、あんたが入りなよ」
「間に合っているわ。どちらかといえば、足りないものだらけよ」
「オレも」
「だから、あんた生贄ね」
同調した男の声は、完全に無視されていた。
「あんた、悪魔だ」
「小悪魔って称号は大歓迎」
「貫禄がありすぎて、それは無理だろ」
「あら、そう?」
澄ました顔で返事をするコクトウに、男は舌打ちした。
「でも、本当に何もかも失うことができるなら、飲まれてみたいわ。アレはイヤだけど」
「なにそれ? 消滅願望?」
ボトボトと次々落とされる住民を見ながら、男は聞いた。
「そうかも」
「無理だろ」
「可能性から否定? 夢もロマンもない」
「無理だってことは、あんたが一番知っているだろ」
「そんなことを言うあなたほどじゃないわ」

口では負けないという意気込みがコクトウから感じられる。口でも勝てないと判断した男は、視線だけをコクトウに投げて、イヤな女、と呟いた。コクトウは、それはどうも、と受けて、男と同じように失業を見つめた。
「私が存在していなかったことにすることはできるかって、考えたことはあるわ」
「それで」
「なんでもない」
「その結論は出た?」
飲み込まれては放出される住民たちを見ながら、男は聞いた。
「一応」
「どんな」
コクトウは、口元だけでフッと笑って見せた。
「不可能」
コクトウに視線を向けた男の視線はある種の熱がこもっているようにも見えた。
「その理由は?」
予想外に力の入った男の言葉とは反対に、コクトウは肩の力を抜いた。
「存在してしまった以上、何者かと関係を持ってしまうもの。捕食という意味でも、意思という意味でも。それ以前に母親を痛めて現れているし」
「意思?」
「その言葉が適当かはわからないけどね。例えば私とあんたが今、こうして会話しているでしょ。でもその会話は二人だけで成り立っているわけじゃない。私に影響を与えた何ものかがいて、同じように、あんたに影響を与えた何ものかがいる。その何ものたちにも影響を受けた何ものかがいて、知らずにそういうなにかの影響を組み込んだ私たちが話しているのよ。そう考えると、きっと私たちも少なからず、なにかに何らかの影響を与えてしまっている。小さくても確実に」
「面白いな」
「でも、そうだとすれば、なかったことにするのは一体どれだけの記憶をつぶしていく必要があるのかな。きっと、どこかで繋がっちゃう」
「無限だな」
「そうね。存在するもの全て消滅させなきゃいけなくなるわ」
 男の動きが止まった。

「やっぱり、その手の方?」
「どういう意味?」
「星一つ余裕で壊せますという類の力を持った」
「ぁあっ? か弱き乙女の私に限って、そんなことあるか! ボケ」
「その類の方々のほうが、まだ穏やかだな」
「会ったことあるのかよ」
 次第に迫力を増していくコクトウから目をそらして、男は軽く咳払いをした。
「まあ、それはともかく、望まなくとも、どこかに生き続けるってことか」
「望まなくとも、よ」
コクトウは男にニヤリと笑って見せた。男は視線をコクトウから、なおも底知れぬ食欲を見せる失業に移した。
「まるで、連鎖だな」
「そうね。個のつもりでも抗うことなんてできないのね」
明日は我が身のその光景をコクトウは、その瞼に焼き付けておくように見つめた。
「そういえば、あんたの名前聞いてなかったな」
「そういえば」
「名前は?」
「黒沢透子。コクトウって呼ばれているわ」
コクトウはニッコリと笑い、右手を差し出した。
「あんたは?」
男は右手をコクトウに差し出した。
「イディオレクト」
「それ、偽名ね」

一瞬、鋭い視線を送った男をコクトウは呆れたように見た。
「言ったでしょ? あんたは嘘をつくとき脈が上がるって」
応じる言葉を発しない男に、コクトウは、まあいいわ、と笑ってみせた。
「誰にでも秘密はあるもんよ。ただ、その偽名は舌を噛みそうだから、イデと呼ぶわ」
「センスはよくないな」
「元のセンスが悪いからね」
どうにもこうにも勝てそうもない相手に、イデはただ苦笑いするしかなかった。失業は、食べ残しがないかをくまなくチェックしているのだろう。村の周りを低空飛行していた。

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