どうしても足元ばかりを見てしまう。
ぼんやりと視線を前に向けたゴウは、普段なら、逃げて、出会わなかったことにしてしまう従姉弟の姿を確認した。
二歳年上の従姉弟のミューは、変わり者で、一緒にいてもいいことがあった記憶がない。できれば距離を置いておきたい存在だった。
「おはよう」
ミューが中学生になってから、挨拶を含めても、ゴウが声をかけたのはこれが初めてかもしれない。ミューもまた、中学生になった頃から、言葉少ない変わり者に変貌していて、ゴウに積極的に話しかけるようなことはなかった。
ミューは、制服のスカートを回転させるように勢いよく振り返えると、肩にかかる長さの真っ直ぐな髪も飛び跳ねるように揺れた。
「ゴウか。珍しいね」
ミューは、驚いたのか、もともと大きな目をさらに見開いた。
ゴウが距離を置きたいと思ってしまうのは、身長も成績もスポーツも、どうしても敵わないミューが嫌いだからということではなかった。ミューと一緒にいることで、自分自身がダメな人間に思えてしまうのだ。ミューが悪いわけではないことをゴウだって十分に自覚をしていた。それでも、距離を置きたいと願ってしまうのは、きっとそのせいだけではないと、ゴウも薄々、いや、無視できないほど明確にその理由を理解していた。
ミューは周りの人がどう思っていようとも構わない様子で、一人で難しい本を読んだり、何かを考えていたり、作っていたりすることばかりを楽しんでいるようだった。その嗜好がますますミューの高嶺の花としての価値を高めていて、一方では、女の子の不満をぶつける格好の材料になっている。当の本人は、そんなことを気にする様子がない。それがますます彼女を浮いた存在に仕上げていた。この従姉弟ががり勉でも優等生でもなく、ただ好奇心が旺盛すぎるだけだということを知っているゴウの心の内は、少々複雑だった。夢中なものができるとほかのことが目に入らない。その代わり、興味のないもの、人の名前は頭に残らない。簡単にいえば、はた迷惑な性質なのだった。
「ちょっとわからないことがあって、困っているんだ」
ミューは大きな目を細めて、ふうん、とだけ答えた。
「今日、学校終わったらミューの家に寄っていい?」
ゴウが小さな勇気を奮い起こして、ミューを真っ直ぐに見据えた。
「本当に珍しい」
ずっと話していなかった上に、一方的に伝えているだけでは、さすがに断られるかもしれない。ゴウは内心ビクビクしていた。
「今日は四時過ぎには帰れるから、家で待ってれば?
ゴウの不安と裏腹に、ミューの答えは軽かった。そのことがゴウに小さな安心を生んだ。
ミューの家のインターフォンを押すと、家の中からバタバタという音が聞こえてきた。玄関の近くで、その音が一度止まり、鍵が開く音が響いた。
「久しぶりじゃない。ゴウ」
中から姿を現したのは、Tシャツとジャージ姿というラフな格好のおばさんだった。おばさんは押し売りじゃないかをこっそり確認してから出るため、インターフォンを使わないと、以前にミューが教えてくれたことをゴウは思い出していた。
「お久しぶりです。今日はミューに本を借りに来ました」
疑われないよう用事を捏造したのに、おばさんはそれを全く気にしていないようだった。むしろ、ゴウの言葉自体が耳に入っていないようにも思えた。
「あのゴウがしっかり挨拶できるようになっちゃって」
おばさんは、ミューと同じ大きな目をさらに大きく見開いた。
「私も年をとるわけだわ」
ゴウが、ははっ、と曖昧な返事をしていると、おばさんは居間に向かって歩き出した。
「帰ってくるまで適当に待っていてね」
「おばさんは仕事を辞めちゃったの?」
一瞬、おばさんの足が止まった。プッ、とおばさんが笑い出すのが聞こえた。その理由がわからないまま、ゴウは呆然としていた。
「ごめん、ごめん。こんな格好で。仕事は今もしているわよ。ただ、個人的な時間もとりたくて、勤めから在宅に変えてもらったのよ。」
「へぇ」
「不本意ながら、在宅になってからのほうが断然忙しくて、こんな格好のままってわけよ。夕飯の仕度も保育園へのお迎えも実羽がしてくれることが多くて。本当に気が利くわ。あの子」
おばさんは居間とつながっている台所へ向かい、冷凍庫からスティック状のアイスを二本取り出し、一本をゴウに手渡した。ありがとうと言って受け取ったゴウに、おばさんは頷くだけの返事をした。
「見た目は今のほうが楽そうでしょ?」
どう答えたらよいか困ったゴウは、アイスを夢中で食べて、聞こえなかったというふりをした。
「ママは仕事、大変って言っている?」
突然、今一番話題にされたくない母親の話をされてしまい、ゴウは面食らってしまった。
「なっ、何も言ってないよ」
そう答えてみたものの、ゴウは母親がパートタイムで働いているということしか知らず、どんな仕事をどこでしているのか、何一つ知らないことに気づいた。
パパもママも働いている。それはゴウには当たり前のことで、それ以上の興味はなかった。もしかしたら、父親も母親も話してくれたことがあったかもしれない。けれど、それはゴウの記憶には残っていなかった。ゴウには、父親は父親であること、母親は母親であること以外、何も想像がつかなかったし、何も必要がなかった。
きっと家族なんてそんなものなんだ、と思うことにして、ゴウはアイスを食べることに集中した。おばさんは、そろそろ仕事に戻るから何かあれば呼んで、と言いながら居間を出た。
テレビのスイッチに手を伸ばそうとして、テレビの横に山積みにされた雑誌に目を奪われた。ゴウには理解ができそうもないコンピューターの雑誌や科学雑誌にまぎれて、少年マンガや少女マンガ、絵本も置かれていた。
適当な一冊を手にしてはこのソファーでくつろぐ、ここの住民たちの姿がゴウの頭の中に浮かんだ。ミューが今読んでいるのはこの科学雑誌だろうけど、と思いながらゴウは、一番先に目についた科学雑誌に手を伸ばした。
いつもミューがしているように、ゴウはソファーに横向きに座った。手すりを背もたれ代わりにし、背もたれに寄りかかって雑誌を開いた。ゴウには面白さを感じられないような数字と記号、線や円だけでできた図ばかりで描かれている雑誌のページを読むことなしに、めくっていった。この本の内容を面白いと思う従姉弟の気持ちを理解する日は来ないかもしれない。けれど、どうしてミューがこんな座り方で本を読むのかは、わかるような気がした。
ミューは、ゴウと同じクラスの女子のように、ゴウを「男子」とは呼ばない。何人かで連れ立って行動することもなければ、いわれのないことを責めるようなマネもしなかった。そんな光景を目にしたら、フッと鼻で笑って通り過ぎる。それがゴウの今の従姉弟だった。
いつもはお高くとまっているような印象すら持たせるそんなミューの行動は、元気を失っている人間にはちょうどよく感じるのかもしれないなどと、ゴウがぼんやりと考えていると玄関が開く音が聞こえてきた。
「ただいま」
ミューの声に続いて、足音が近づいてくるのが聞こえてきた。
居間にいたゴウを確認すると、ミューは、何か飲むかと尋ねた。
「冷たいお茶」
ゴウの返事を聞いて、ミューは冷蔵庫を開けた。外の暑さがまるで嘘のような涼しさがそこにはあり、エコロジーなんて言葉を忘れ、ミューはその空気を感じているようだった。
「用意するから、先に部屋に入ってて」
ゴウが、はぁい、と返事をすると、ミューは静かに目を細めた。
ミューの部屋は、イケメンのポスターも、可愛らしいキャラクターグッズも見当たらない代わりに、整理された工具と二台のパソコン、難しそうな本に囲まれていた。ゴウはミューと一緒に発明と称して物を作るのが嫌いではなかったが、いつからか、この部屋から足が遠のいていた。
前に訪れたときには、置いてなかった黒いボール型のなにかが目に入った。ゴウがそれに手を伸ばしたとき、ミューが部屋のドアを開ける音が聞こえた。
ミューは部屋に入ると、両手に持っていた二つのグラスのうち、氷がいっぱい入ったグラスをゴウに渡した。ありがとう、と言ってゴウはグラスを受け取り、口に運んだ。
甘いような、スッとするような、お茶の香りがゴウの鼻をくすぐった。
すぐでも話そうと心に決めていたゴウだったが、その決意とは裏腹に言葉はなかなか音になることがなかった。
黙っていたミューは、グラスの半分までお茶を飲んだところで、黒いボール型のスイッチらしいものを触って、ブラインドを閉めた。ブラインドの隙間から、微かに夏の日差しが差し込んでいるが、ミューの部屋は満天の星が広がる夜空に変わった。余計な装飾のない壁や天井を光の粒が彩る。ニセモノとはわかっていても、ゴウは自分を包むようなその瞬きをきれいだと感じていた。その美しさに、形になりそうでならなかった言葉は、ゴウの内側へと戻っていった。
「これは先週できたの」
ミューに劣等感を感じてしまうこともあるゴウだが、ミューの作り出す魔法のようなモノたちには、いつもわくわくさせられた。そんなミューのよさにたどり着くことができるのは、ほんのごく僅かな存在だけだということが、ゴウには残念でならなかった。
「実際の星空と同じにしようと思ったんだけど、いくつか間違えたところに穴を開けちゃって。失敗作になっちゃった」
間違えたらしい場所を示しているのだろうミューの指先を見ても、ゴウには何が失敗なのか全くわからない。
「どこが失敗なの?」
ゴウの質問に、ミューは短い溜息を漏らした。
「肉眼じゃ見えないバラ星雲を出してみたいって欲に負けたのがいけないんだけど、一角獣座のM50とαの間にシリウスより大きな星ができてるでしょ?」
「はぁ」
ゴウは相槌を打ったものの、それがどんなに大切なことなのかを理解することはできなかった。ゴウは少ししょんぼりしているように見えるミューを慰めるように言った。
「星なんて数え切れないくらい、いっぱいあるんだから、少し増えてもわからないんじゃないの?」
これ以上難しい話になってしまうことを恐れたゴウの適当な言葉は、意外にもミューのお気に入りになったようで、ミューは少し微笑んだ。
「そうかもしれない」
ミューが笑っているところを見るのは久しぶりだとゴウがぼんやりと考えているところに、ミューは、それで、と言葉を続けた。
「わからないことって何? 七夕シーズンだからってベガやアルタイルについて聞きたいなんてことは言わないでしょうね」
ミューは、からかうように笑った。ゴウは心の中で、そんなどこでも調べがつくようなことは聞かないよと溜息をついた。
一度、ほかのことを考えることになったからか、ゴウは朝より少し気持ちに余裕ができたように思えた。一呼吸をして、ミューが理解しやすいように配慮しながら、昨日の不思議なものについて話をする準備をする。
「実は、昨日、パパを尾行したんだ」
「尾行なんて穏やかじゃないね」
「そしたら、ママのお墓があって、パパはそこに花を供えた」
ミューの眉間に力が込められた。
「墓石を見たら、ママは僕が生まれる二年前に死んだことになっているんだ」
ゴウは一呼吸置いて、昨日からずっと考えていたことを伝えようと、口にした。
「もし、お墓の中にいる人が本当のママなら、今、家にいるママは誰なんだろう? もし、今のママが本当の高橋彩という人になりましているのだとしたら、パパもママも何かを隠してる。何を隠しているんだろう?」
墓の中にいる母親がゴウを産んだとは、どうしても考えることができなかった。
時間は一方通行だ。逆には流れない。
ゴウの話を聞きながら、ミューはパソコンの起動ボタンを押していた。軽いタッチで何かを入力すると、ミューはようやくその口を開いた。
「わたしも死んでいる人がゴウを生んだとは思えない」
ミューはパソコンの画面を指差した。
「ゴウは小学生だよね。ってことは、ゴウには戸籍があるってことだね」
期待していた答えとはかけ離れていて、ゴウは言葉を失った。
「母親のみで生まれた場合は、非嫡子として出生届を提出することもできて、父親不在ということはありえるけれど、父親のみでは生まれようがない。自然の摂理からいっても。ということは、ゴウのママである高橋彩の死亡届は出されていないということで、少なくとも書類上では生き続けている」
でも、とミューはまるで独り言のように呟いた。
「埋葬したなら、いろいろな手続きもしているはず。出していないとなれば、誰かが不審だって気づくと思うし。失踪宣告による死亡認定なら、届けを取り消すこともあるだろうけど、死亡届は取り消さないし、取り消しているケースは記録に残っているはず」
その呟きに、ゴウが首をかしげていると、ミューはその様子に気づいて、ごめん、ごめんと、軽く謝った。
「何にしても、死んだ人からゴウが生まれたということはありえないわ。とりあえず、ゴウの戸籍を見てみようか。そうすれば、高橋彩という人がゴウを生んだのか、全く違う人が生んで、高橋彩になりすましているかがわかるでしょ?」
それじゃ解決にはならないと、ゴウは不満をミューの耳には入れない細心の注意を払った小さな声で漏らした。
「だから、その上で、高橋彩の墓に眠る人が本当にいるのかを見てみよう」
その言葉の意味は、昨日、ゴウがどうしてもできなかった行動を示すものだということを理解するのに、数秒もかからなかった。
「だっ、だれが?」
かすれたようにも聞こえる声で、ゴウが聞いた。
「もちろん、真相を知りたい人」
「お墓の中を見るってことだよね?」
ゴウはゴクリと音を鳴らして唾を飲み込んだ。
「そう」
ミューはニヤリと笑った。今までは、束になって変な言いがかりで責め立てるクラスの女子ほど怖いものはないと思っていたゴウは、それ以上に怖いものが存在したことに身震いをした。
「そっ、それは、やめておこうよ」
精一杯の勇気を振り絞った反論にミューは首をかしげてみせた。
「別に構わないよ。わたしは。おばさんが誰でもいいもん」
そう軽く返事をされてしまうと、今度は、真実を見つけることがゴウの使命のような気がしてきてしまう。
「やりたくないわけじゃないんだ。他にいいやり方があると思っただけで」
歯切れの悪い反論をするのが精一杯になっていることが、ゴウは少し悔しかった。
よくよく考えなくとも、苦しい言い訳。ミューの返事を待つこともなく、ゴウは、やるよ、と呟いた。
「ミューは手伝ってくれる?」
彼女の性格を知っているゴウは、少し不安な面持ちになりながら聞いた。先ほど誰でもいいと言い切ったミューには、これはあまり興味がないことなのかもしれないという気がしたのだ。彼女は自分の興味があることにはこれ以上になく勉強熱心だが、興味が持てないものには目もくれない。
ゴウの不安な心のうちを知ってか、知らずしてか、ミューは軽く、いいよ、と返事をした。やられた。ゴウは心の中で舌打ちした。ミューは興味がないようなことを言ったくせに、本当はこの謎解きに興味を持っていて、ゴウはまんまとミューの思う通りの返事をしてしまったのだ。
まんまとやりくるめられてから気づくなら、そのことに気づかないほうが幾分マシだったとゴウは心の中でまたしても特大の溜息をついた。この従姉弟には、どうしても勝てそうもない。
「それじゃ、今日はもう遅いから、明日、戸籍とってきてね」
用件を簡潔に伝えたミューにゴウが顔を向けると、ミューは零れんばかりの笑顔をゴウに向けた。
「お墓は、十三日の金曜日に行く?」
笑顔の使い方が間違えているような気がしてならない。それは、三年前、ミューが面白いものを見つけたと言ってゴウに見せた昔のホラー映画を思い出させるために言ったのだとゴウは確信した。お墓の近くには、湖もないし、チェンソーを使って切るような木もないから大丈夫だと思ってみても、頷くことができない自分自身が不甲斐ないと、ゴウはまだ小さな肩を、より一層小さく見せるかのように肩を落とした。
「土曜日にしよう。パパとママには肝試しに行くって言っておく」
ミューはおかしそうにクスクスと笑いながら、仕方ない子ね、とお姉さんぶった口調で言った。たった二歳だけど、その二歳の差はどう頑張っても埋められることがないほど大きなもののように感じ、ゴウは今日一番の立派な溜息をついた。
市役所で受け取ったゴウの戸籍謄本を確認すると、そこには当たり前のように、母親の欄に「長谷川彩」という名前があった。旧姓の高橋から長谷川に変わっていて、疑いようがなく、父親と母親が正式に結婚もしているのだろうことも推測がついた。
どこか安心をした一方で、これでますます謎の答えが遠くなったことを意味していることにも気づいて、ゴウは一人溜息をついた。あの墓に眠る秘密を知りたい気持ちと、知りたいという願う気持ちを抑えようとする何かが交互にゴウの中に現れては消える。
翌朝の通学途中で、ゴウはミューに、ママは高橋彩だったと、短く伝えた。
多雨といわれる今年の梅雨の雨も、ゴウの頭の中にかかったもやを洗い流すことはできないようだった。雨が運ぶアスファルトの埃っぽい匂いも、ダラダラと続く毎日の中で姿を消し、代わりに、清潔感がある、あの甘い香りを感じることがあった。