時だけが徒に過ぎ、ゴウの頭の中では何もまとまることのない考えが暴走したままの状態で土曜日がやってきてしまった。
その日は、雨ではなくどんよりとした曇り空だった。
それでも、厚い雲の上にはギラギラとした夏の太陽が隠れているということが感じられるように、暑さは滲み出ていた。夕方になると、なんとなく月の位置がわかるような雲の厚さになってはいたのだが、月の姿はついぞ見ることはできなかった。
そういえば、今日は七夕だということに思い至った。足が速くなりますように、背が伸びますように、頭がよくなりますようにと、毎年その願いの数も内容も変わっていくけれど、短冊に願い事を書くということは、変わらず楽しみにしていたゴウは、七夕の夜を何の準備もせずに迎えてしまった自分自身に少し驚いていた。
去年までゴウにとって一つの重要イベントだったはずの七夕は、急に色あせてしまい、代わりに不気味なハロウィンが夏前に訪れたのではないかとさえ感じていた。それほどまでに、たった一つの小さな謎にばかり気をとられていたことに気づいて、ゴウはどこか他人事のように苦笑いしてみた。時間があればシュウやケンタと遊んだり、ゲームしたりしていた日常が、今はどこか遠いもののであるかに感じていた。
「早いね」
突然、暗闇から降ってわいたような声に、ゴウの肩はビクッと震えた。声の主は、もちろん聞きなれたミューの声で、この暗闇が怖かったわけでも、お化けと間違えたわけでもなかった。ただ突然のことに驚いた、反射のようなものだと、ゴウはその反応を見てクスクスと笑うミューに正しく伝えたいと思ったが、どちらにしても、笑われそうだと思い至った。
いつまでも子ども扱いをするミューの顔をゴウは軽く見上げた。それに気づいたミューは、目だけをゴウのほうに動かし、口を結んだ。
「それじゃ、行こうか」
歩き始めるミューのあとをゴウが追った。
「どのお墓?」
ミューの質問に、今日は自分が案内をしないといけないのだということをゴウは思い出し、従姉弟の前に足を進めた。遠くに揺らめく民家の灯りを頼りに、二人は目的の墓を目指して進み続けた。雨は降っていないのに、足を進めるたびに、汗とは違う水分も服に染み付いてくるようなジメッとした空気の夜だった。一歩一歩足を運ぶたびに、あの日の出来事が夢で、墓など存在していなければいいのにという思いと、実在していてほしいという願いがゴウの中で交錯していた。
墓に着くまで、ゴウは話すことを忘れてしまったかのように静かだった。ミューもまた、自分から何かを話しかけるようなことはしなかったので、その静けさは厳粛に守られた。
目的地に到着すると、あの雨の夕方に見た景色が夢ではなかったことが証明された。変わらず、高橋彩の名前が刻まれた墓石があり、辺りには、眠気を誘うような匂いが同じように漂っていた。
ゴクリ。ミューの唾を飲む音が伝わってきた。
あの日、ゴウの父親が捧げた花は、誰かが処分したのか、もうそこにはなかった。そこには、変わらず、紫色の小さな花をいくつもつけた植え込みがあるだけだった。ただの花なのに、これからゴウたちがしようとしていることを知っていて、そのことを咎めているようにも感じられた。
ゴウの心のざわめきなどお構いしに、ミューは墓石の手前にある一枚の石を持ち上げようとしていた。クラスの女子だけが特別なんじゃない、女の人の心は揺れないんだとゴウは思うことにした。
「っふぐっ」
気合を送りながら、ミューが板を持ち上げていた。遠くで揺らめく灯りも、生まれたての月の光も弱々しすぎて、中までを照らすことはできなかった。
「昨日が朔だったよね?」
ミューは顔を動かす素振りでゴウに懐中電灯を要求した。本日初めてその役目を果たすことになる懐中電灯をミューに手渡そうとして、彼女の両手がふさがっていることに、ゴウはようやく気づいた。電源を入れ、その暗い地中の空間に光を送った。
白いものを見つけたゴウの動きが止まった。それを確認した、ミューも中を覗き込んだ。そこには確かに、おじいちゃんのお葬式のときに、骨を拾って仕舞い込んだ、あの骨壷の姿があった。
さすがのミューも、骨壷を開けようとは言うことなく、そっと石板を元の位置に戻した。
変わらず不安そうな目をするゴウは、恐怖ではなく、謎に対する好奇心が紛れているように光るミューの目を見た。ゴウはその目に、呆れや不謹慎だという憤りより、なぜか安心感を覚えた。
ゴウたちの体を優しく包み込むような甘くて、眠気を誘う香りを含んだ湿り気を帯びた空気が不思議な気持ちをもたらしたのかもしれない。
「ねえ、これ」
そういってミューが指差す先は、先ほど持ち上げたはずの石板で、その石板にはご丁寧に「2011.12.25」という数字が書かれていた。彫ってあるものではなく、手書きの文字。この日付が何を指し示すのか、ゴウだけでなくミューにとっても理解できなかった。最近書かれたものとも思えない古さがそこから感じられた。この文字に止めを刺されたような気がして、ゴウは言葉を失った。
帰り道も行きと同じように無言だった。ミューは何か、考えを巡らせているようだったし、ゴウはゴウで答えが見えない、深まった謎のことばかりが頭の中をまとまることなく駆け巡っていた。
「明日、家に来て」
別れ際にミューが伝えた言葉に、ゴウは、わかった、とだけ答えた。
早く部屋に戻って眠ってしまいたいと思っても、家には父親も母親もいることがゴウの足を鈍らせた。
家に戻ると、当然のように父親も母親もいて、おかえり、と声をかけてくれた。
「楽しかった?」
そう笑顔で聞く母親に、ゴウは、楽しかったと短く返事をした。
「今日は疲れたから、もう寝るよ。明日はミューに勉強を見てもらうから、早く出る」
変な声にならないように注意しながらゴウはそう伝えると部屋へ戻った。
ミューと見た、あの骨壷が記憶に焼きついていて眠れそうもない。そんなゴウの予想を裏切って、いつの間にか、安らかな眠りに落ちていた。ゴウの体には、あの墓の前で感じた安心するような甘くて、清涼感ある香りが染みついていた。
ゴウは日曜日だというのに、いつもより早く目が覚めた。まだ誰も起きていないのを確認して、家を出た。
ミューが起きているとは考えつかなかったゴウは、ミューの家の近くにある公園のベンチに座り、ぼんやりと噴水を見ていた。
朝早いにも関わらず、公園にはジョギングをする人や体操をする人が、絶えることはなかった。あの苦しいマラソンを好き好んでしている人の気持ちはゴウにはわからなかった。そのジョギングをする人の群れの中に見慣れた人の姿を確認した。誰だか見紛うはずもない。ゴウは慌てて、その身を近くの木陰に隠した。
先日とは色が違うジャージを着て、長い髪を一つに束ねたおばさんが軽快とは言いがたい様子で移動していた。本人はジョギングのつもりなのだろうが、あれではどう見ても俵引きレースの決勝戦でも出ているような姿だと思い、ゴウは吹き出した。ひとしきり笑い転げたあとに、そういえば笑ったのは久しぶりだということに気づいて、笑いの種をくれたおばさんに密かに感謝した。
ゴウは乱れた息を整えて、戻ろうとしたベンチに視線を向けると、ジョギングする人の群の中にミューの姿を確認した。おばさんと違って、ちゃんとジョギングをしている。意外すぎる組み合わせに驚き、移動するタイミングを逃してしまった。あのおばさんに無理矢理付き合わされているという予想ができて納得したものの、なんだかベンチに戻る気にはなれなかった。
ミューが公園から出てから、一時間過ぎたあたりで家に向かえば十分だろう。ゴウは空を見上げ、朝の空気を体の隅々まで行き渡るくらいまで吸い込んだ。湿度を帯びた空気とともに、草の匂いがゴウの肺を満たしていった。さすがに人の家に上がる前に、湿った草の上に寝転ぶことは躊躇われて、近くの木にもたれかかって待つことにした。
昔はこの木にも登ったなんていう感傷にゴウは浸っていた。大人がいう「昔」とは時間の尺が違うのだろう。けれど、確かに今のゴウには手の届かない昔について思いを馳せた。どうしても届かなかった枝が、ジャンプをすれば手が届きそうな位置にあった。
時間は確実に流れているのに、夏は確実に近づいているのに、なかなか姿を見せない。もどかしい季節は、そのままゴウの気持ちを表しているかのように感じた。
今年も自由課題と手の運動にしかならない宿題に悩む楽しい夏休みが近づいているのに、今のゴウには少し憂鬱だった。小学生最後の夏休みを楽しく過ごすと決めていた六月までのゴウとは、まるで別人のようにも思えた。
楽しい時間が過ぎるのは早く感じる。悩み続けて、ぼんやりしているときもまた、時間はインチキをしているかのように早く進んでしまうことを初めて知った。
ミューの家までの道に何があるのかを確認するように、辺りを見回しながら、ゴウは一歩一歩ゆっくりと歩を進めた。当然、見回した景色の中にゴウの求める答えなどないだけでなく、考えの助けになるものすらなかった。視界に入っては消えていくことの繰り返しの景色の中をゴウは一人歩いていた。
ミューの家に着くと、コーヒーの匂いがドアの内側から流れてきた。その匂いで、朝ごはんを食べていなかったことにゴウはようやく気づいた。何か食べさせてもらおうと考えながら、インターフォンを押す。珍しく男の人の低い声が聞こえてきた。
「ゴウです」
インターフォンに向かって名乗ったゴウに、その声が「久しぶりだな。開いているから入ってきなさい」と伝えた。
ドアを開けると、見た目は優しそうという褒め言葉がまるで嘘になってしまうおじさんの姿があった。この風貌に加えて無口なためか、怖いという印象を持たれることが多いのだが、その厳つい風貌とは不釣合いなくらい優しさが滲み溢れたまなざしをするこのおじさんのことがゴウは大好きだった。
ゴウが以前、素直にそのことをおばさんに話すと、おばさんは「いい男でしょ」と自分が褒められたかのように胸を張って言い、その言葉を聞いていたおじさんは「うるさい」と言って、その場から立ち去ってしまった。そのときのおじさんの耳は真っ赤になっていることは、そこにいた誰もが気づいていた。照れ屋だからと笑うおばさんと一緒にゴウも笑ってしまったと知ったら、おじさんはきっと再起不能になってしまうだろう。そう思うと、ゴウの気持ちをおじさんに伝えるのは封印しておこうと思ってしまうのだった。
ゴウがおじさんと居間に入ると、予想通り、コーヒーを飲むおばさんとミュー、牛乳を飲むミューの弟の朔がいた。挨拶をすると、おばさんはゴウのコーヒーを用意し始めた。
「ゴウも、砂糖とミルクを入れるのよね」
この家では、おばさんとミューは砂糖もミルクも使わない。おじさんだけが両方をコーヒーに入れて飲む。朔はまだ牛乳で、いつもその牛乳に砂糖を入れる機会を伺っている。
ゴウはおじさんとのこの小さな共通点がうれしかった。
パンの残骸を見つけたゴウがおずおずと、「パンを食べてもいい?」と聞いた。おばさんが「もちろん」と答え、おじさんは返事をする代わりに、パンを皿に取って渡した。ミューはそんな様子をニコニコと笑って見ていた。
ご飯を食べたせいか、ゴウは元気が少し回復したような気がして、心なしか、ぼんやりしていた頭も少しすっきりしてきた。
遅くなってしまった朝ごはんを食べ終え、ゴウとミューは食器を片付けてから、ミューの部屋へ向かった。
ミューは、部屋のドアを閉めると、ゴウに向かって、ニンマリという言葉がしっくりくるような笑顔をゴウに向けた。
「ゴウを生んだのは誰なのか、見に行ってみようよ」
ミューは机の上に置いてある引き出しの一つから何かを取り出した。ゴウが生まれた病院やそういえば会ったことのない母親方の祖父母への聞き取り調査でもするのだろうと予想していたゴウが驚くのに、そう時間はかからなかった。
ミューが提案した内容を正しく理解したとき、ゴウはそれこそ天地がひっくり返るような驚きというのはこういうものだろうと思われる衝撃を受けた。
「過去に行くって?」
ミューはいつもの様子を崩すこともなく、涼しい声で、そう、とだけ答えた。
「ミュー。そっ、それは。現実を見ようよ」
ゴウは自分がさも常識を持ち、かつ冷静な人であるかのように振舞おうとした。そんなゴウにミューは右眉だけを上げて見やり、右手で懐中時計のようなものをゴウの目の前に差し出したあと、左手でパソコンの画面を指差した。
「これが現実」
だから受け入れなさい、とミューの目が語っていた。
パソコンの画面には、二〇一〇年十二月二十五日に重体者を出した交通事故の記事が僅かに数件写し出されていた。受け取った懐中時計のようなものを持ちながら、ゴウはその画面に、思わず息を飲み込んだ。
「不審なくらい情報がない」
パソコンの画面から目を離すことなく、ミューは低い声を出した。初めて聞くミューの声色に、ゴウは緊張を走らせた。確かに、関連する情報は一切なく、ただ、誰かが重体となったということを伝えるその日の記事だけがあった。
瞬きも忘れ、画面に釘付けになるゴウは、自分の存在を忘れる前に、手の中の異物に気がついた。ミューから手渡された懐中時計だった。一人思い悩むには、まだ時期が早かったようだ。
「で、これはなに?」
あまりにも驚いてしまう出来事が連続して起こったせいかもしれない。ゴウの声は、思ったよりもずっと落ち着いていた。ミューは、ゴウのほうに顔を向けると、ニヤリという音が聞こえた気がした。
「簡単に言うと、タイムマシン。私もこんなものになるとは思わなかったけど」
「えっ」
「昔から、タイムマシンについては真面目に研究されていたじゃない」
呆然としているゴウを無視するかのようにさらりと流れていこうとするミューの言葉を、ようやくゴウはその頭に留めた。
「でも、それは光速を超えて移動したり、宇宙にあるとかいうワームホールを通過したりっていうことで、生きたままの人間が移動するのは不可能って教えてくれなかったっけ?」
かつて、この部屋でそう教えてくれた従姉弟の言葉を思い出して、ゴウは精一杯の反論をした。そうね、と相槌を打った後、ミューはニヤリと笑った。
「でも、どんな仮説も、実際にあることの理屈でしかない。理屈から現実が生まれることのほうが稀かもね。超高速も宇宙のひもの理論も使わないけど、できちゃったコレが現実」
鈍い色で光る懐中時計のようなものをミューは、うっとりとした目で見つめていた。
「形。懐中時計って、そのまま過ぎじゃない?」
心の中にあった疑問というよりは、ツッコミという気持ちで、数少なくなってきた反論ポイントを口にした。
「いいじゃない。わたしの好みなの」
「時計の針を回すと、周りの時間が戻っていくっていう、想像しやすいアレ?」
SFモノの影響受けすぎだよ、とゴウが溜息とともに吐き出した。
「別に時計は重要じゃないのよ。好みだっていったでしょ? ほれ」
ミューは文字盤の裏を開いて見せた。ゴウが覗き込むと、アンティークな雰囲気である懐中時計とは不釣合いなレーダーのようなものと入力ボタンがあった。
「時間のひずみを見つけ出して、引っ張ってくる機械。ただ、それだけだとどこに行くのかわからないから、それぞれのひずみに特徴を探し出して、法則を見つけ出したのよ。内部で信号に変換するように作ってあるから、行きたい時間を入力すればいいだけ。場所は、補償範囲外だけど」
首を傾げているゴウを横目で見ながら、ミューは溜息をついた。
「本当に大変だったんだから、お洒落に小型化するの。デザインが決まらなくて」
大切そうに懐中時計を撫でながら話すミューに、ゴウは湧き出した疑問をぶつけた。
「小型化って、何か元があるの?」
ミューは一瞬、体をビクッと反応させた。
「あるよ。パパの研究所に」
「おじさんって、溶接技術者だよね? 研究って何?」
知りたい謎の答えは見つからないまま、新しい謎が増えていく。質問ばかりが続いてミューはうんざりしないだろうかと、ゴウは不安に思い始めていた。
「表向きはね。ママも表向きはプログラマーでしょ? ゴウのママも」
ゴウは自分の母親がプログラマーをしていたということすら知らなかった。けれど、それ以上に、裏のありそうな香りに怖いと思う反面、理由の見えない期待感が高まってくるのを感じ始めていた。
「じゃ、じゃあ、本当は何をしているの?」
「わたしも聞いたわけじゃないもん。隠してるみたいだし。もしかしたら、パパやママだけの話じゃないみたいだし、どちらにしても、子供一人が全てを知ることは不可能に近い」
「それなら、どうしてソレはできたの?」
ミューの右手を指差しながら、ゴウが聞いた。ゴウは、これが一番の謎だと考えていた。
「ハック アンド メモリ」
ウィンクをしながら、左手の人差し指で自分のこめかみ辺りを指し、軽い調子で答えた。
「ハックって、犯罪じゃない」
いよいよ疲れた声のゴウに、ミューは息遣いだけで、知ってる、と返事をした。
「隠された活動が犯罪だったら、データ流出事故を起こして、終わりにしたかったの」
少し寂しさを滲ませながらも、毅然とした声でミューが答えた。
「じゃあ、その活動は犯罪じゃなかったんだ。それだと」
「ハックした形跡も残してないし、これも設計図とは違うものよ。元がわからないまで改良したから、せいぜい天才少女の自由研究止まりよ」
自分のことを天才と言ってのけたミューに、笑うところなのか、突っ込んでほしかったのかを聞くタイミングを逃してしまった。世間の誤ったイメージとはかけ離れるミューの実体に触れることになったゴウは、ある種の恐怖を感じ始めていた。
「向こうで何があるかわからないから、お小遣いはできる限り持って行かないとね」
目をキラキラさせているこの年上の従姉弟を止めることなどできないと、ゴウは悟った。
ゴウが信用していいのかわからないその鈍い輝きを放って存在を示す、その機械に頼るのは、終業式の翌日、夏休み初日ということに決まった。
何日くらいかかるかと聞いたゴウに、どのくらいの時間を過去で過ごすかはわからないけど、戻ってくるのはその日のうちにすればいい とミューは笑顔で言ってのけた。
「ゴウが声変わりする前には戻らないと変に思われるよね?」
そんな心配をする従姉弟に、そんなに長期間滞在をするつもりなのかと大きな不安とともに、感じ始めている恐怖が実体になるという確かな予感が生まれた。