空気中に染みついた何かを洗い流すように、次から次へと滴が落ちる。
落とし主を確認することができないほど、遥か遠くのどこかから落とされる。
足元に落ちた水が集まって、やがて小さな湖を作り出し、次に落ちてくる滴を迎え入れては、拍手をする。
拍手はあちらこちらから巻き起こり、その拍手の固まりは音楽へと変わる。
生暖かく湿った感触と、埃っぽい、でもどこか懐かしい気持ちにさせる匂いを感じる夏前の雨独特の雰囲気がゴウは嫌いではなかった。
雨の大合唱を聞いては、傘を持ち、ビーチサンダルを履いて、表に飛び出す。五年前の彼ならば、そうやって彼の音を作り出していただろう。
その決して嫌いとはいえない雨を彼は今、ようやく百五十センチに届いたばかりの小さな体全体で受け止めていた。けれど、その表情からは楽しい様子は見られない。むしろ、表情というものを忘れてしまったかのようにも見える。
声変わりを迎える前の彼の声は、呼びかけた相手に届くことなく、大合唱の音の波の中に静かに消えていった。
この日の雨は、大合唱でも大喝采でもなく、ノイズだった。
その日、遊び仲間のシュウとケンタ、ヤマ、リョウと別れた後、家に帰る途中で、ゴウは花屋から花束を持って出てきた父親を見つけた。
偶然、街中で見かけた父親を驚かす機会を伺っていたゴウは、父親が家とは反対方向に進むということに気づいた。
傘の中で、その花束を何度も見つめながら歩いている父親の様子に、ますますゴウの好奇心は膨らんでいった。
探偵にでもなったような気持ちで、ワクワクしながらゴウは尾行を開始したのだった。いつ驚かそうか、と楽しみな気持ちが大半を占めていた。残った部分の多くは、誰にも言えない秘密を握ってしまうのかもしれないという不安と期待。そんな気軽な気持ちだった。
けれど、彼の父親がようやく立ち止まったときに驚いたのは、ゴウの方だった。
ゴウの目が捉えたのは、町外れのどこにでもありそうな共同墓地だった。
ゴウは父親に見つからないように、父親がいる場所から一列奥の墓の影に身を潜めながら進んだ。
父親は迷うことなく、その中を進み、ある一つの墓の前に立ち止まり、花を手向けた。
ゴウが知る曾おばあちゃんの墓でも、おじいちゃんの墓でもなかった。
父親が墓を立ち去ったあと、ゴウはこの墓の主が誰なのかという好奇心から、隠れていた墓から移動した。
古いとはいえないまでも、決して真新しいとは思えない墓石の後ろに回って、納骨されている人物の名を確認したとき、ゴウは全身の力が全て抜けてしまったような気がした。
力が抜けた手から落ちた傘は、墓の周りに植えられていた小さな花を雨から守るように落ちた。
清涼感があり、甘く、眠気を誘うような小さな花の香りを感じながらも、ゴウの頭の中は眠ることも拒否してしまうほどの早さで考えが駆け巡っていた。
ゴウの視界が捕らえたのは、確かに、今朝も挨拶を交わしたはずの母親の名前だった。
高橋 彩
平成二十二年十二月三十一日没 二十九歳
そこには確かに、そう刻まれていた。
ゴウが生まれたのは、二〇一三年、平成二十五年の九月二十九日のことで、そのときの母親の年齢は三十二歳だった。
一体、誰のどんないたずらなのか、とゴウはフルスピードで巡る考えの回転数をさらに上げてみたのだが、その答えは見つからなかった。ゴウの父親は冗談を言うことはあっても、こんな性質の悪い悪戯をするなんていうことは肯定できなかったのだ。
ゴウの中にブラックホールのように広がっていく謎と強まる雨の中で、小さな存在をアピールするかのように匂いを放つことをやめなかった花だけがゴウを労わる唯一のもののような気がした。
どうやって家まで帰ってきたのか、ゴウには思い出せなかった。
玄関を開けると、あの墓で感じたような甘く優しい匂いがゴウの体に染みついて、漂っているようだった。
ずぶ濡れになって帰ってきたゴウを見つけて、笑顔から心配を表した表情に変えた母親がバスタオルを持ってかけ寄ってきた。
「今日は雨降るって言ったじゃない。もう、このままお風呂入っちゃいなさい。風邪ひかないようにね」
そう言うと、母親は台所へ戻っていった。
「傘を忘れたのか? ゴウは」
居間から、のんびりした口調の父親の声が聞こえた。そういえば、傘はどこに置いてきたのだろう。
墓にいる母親が本物で、今朝まで一緒にいた母親は自分の夢ではないかという不安を持ちながらゴウは戻ってきたが、母親はいた。
もっとも、もしも、墓の中の母親が本物で、彫ってあるあの文字も本当のことだとしたら、ゴウは生まれていないということは、混乱するゴウの頭でも容易に導き出せる常識だった。
いつもより熱めの湯船の中で、ゴウは膝を抱えるようにして、答えの出ない疑問のことばかりを考えていた。
頭も体も洗って、さっぱりしたはずなのに、いつまでもあの花の甘い匂いがまとわりついていた。
風呂から上がったゴウを待ち構えていたのは、大好きなはずのハンバーグだったのに、その味がおいしいのか、おいしくないのかもゴウにはわからなかった。
ただ、雨の中で見たあの墓石のことに悩まされていることだけは確かだった。
いつも人の皿の上のハンバーグまで狙うほど元気なゴウとは違う様子にゴウの父親と母親は顔を見合わせていた。
答えはおろか、何のヒントも見つからないまま、朝は当たり前のようにゴウの元にも訪れた。
ゴウも当たり前の平日の朝に、当たり前のように学校へ向かう準備をしていた。
一晩過ぎても、おとなしいゴウを見て、母親は少し顔を曇らせた。
「やっぱり風邪引いちゃった?」
「大丈夫」
ゴウは、昨日から母親の顔を見ることができない。
「行ってきます」
顔を背けたまま、「大きくハキハキ」ということが大好きな遠藤先生にほめられてしまいそうな声を張り上げて、ゴウは家を飛び出した。
元気な声を作ってみても、気持ちが晴れるようなことはなかった。